東京凌霜謡会関係の投稿を降順に記載しています。(行のクリックで該当の投稿記事にジャンプします。)

 (投稿日)    (投稿者)         (タイトル) 

2023年12月 3日   向濱幸雄(S44年卒)        第3回三大学卒業生謡会の開催

2022年12月 4日   山本秀人(S47年卒)        第2回三大学卒業生謡会の開催  

2022年 7月  2日   向濱幸雄(S44年卒)        第34回全国大学学生・OB・OG能楽連合会謡会に参加                        

2019年12月24日    山本秀人(S47年卒)        三大学卒業生謡会の発足と第1回会合

2019年 3月24日       向濱幸雄(S44年卒)    東京凌霜謡会のあゆみ (会誌「凌霜」投稿記事調査のまとめ)

2018年10月 2日       山本秀人(S47年卒)    全国大学学生・OB謡曲連合会謡会(7月28日開催)に参加

2018年 6月15日       向濱幸雄(S44年卒)    東京六甲クラブ6月号で東京凌霜謡会を紹介

2015年 6月27日       西野公三(S33年卒)    第700回月例会を無事終えて

2015年 3月27日       山本秀人(S47年卒)    平成27年3月例会風景

2018年 9月  4日       柳原仁哉(S25年卒)        平成22年「凌霜」への投稿文「東京凌霜謡会」を転写  

2015年 7月28日       段野治雄(S40年卒)    東京凌霜謡会の初期の「凌霜」投稿記事を紹介

                        ---- 昭和41年1月21日発行(196号)および昭和49年11月1日発行(第215号)

 


                                            令和5年12月11日
   第三回三大学卒業生謡会 報告                               世話人 向濱 幸雄
 
 2019年11月に第一回三大学卒業生謡会が開催、2022年12月4日に第二回の再開に続き、本年12月

3日に第三回が開催された。
 今回の開催場所は、幹事の一橋大の設定で竹橋の「如水会館」3階のけやきの間で、如水観世会(一橋大)6名、香謠会(大阪公大=旧市大)7名、東京凌霜謡会(神戸大)3名の総勢16名が参加して、合同素謡、各会による連吟で日ごろの鍛錬の成果を披露した。
 当日の番組は別添のとおりで、わが東京凌霜謡会は合同素謡『巴』のお役の担当と、連吟『三井寺』を謡

った。会員のスケジュール上今回は3名(敬称略:谷村・山本・向濱)だけの参加となった。
 今回の謡会はマスク等の着用もなく通常のスタイルで着席での謡会で行われ、12時半から15時15分の謡会終了後は恒例の懇親会が開かれた。懇親会は卒業年次の近さで、3つのテーブルに分かれて、デリバリーの食事

を楽しみながら、会話に花を咲かせた。その後、参加の各人からの謡曲や健康管理等のスピーチで盛り上が

ったが、予定通り午後5時に盛会のうちに終了した。
 なお、次回は2024年12月1日(第1日日曜日)とし、幹事校は神戸大となる。  
                                             以 上


                                  令和4年12月4日
              第二回三大学卒業生謡会 報告
                              今回世話人 山本秀人

 2019年11月に第一回三大学謡会が開催され、毎年開催の予定であったが、新型コロナ
感染症の蔓延のため延期され、ようやく2022年12月4日に第二回を開催した。

 今回も開催場所は神戸大学六甲クラブ様にお世話になり、大阪市大9名、一橋大5名、
神戸大3名の総勢17名が参加し(懇親会は16名)、合同素謡、各校による連吟で日ごろの
鍛錬の成果を披露した。

 今回は新型コロナ感染対策として、地謡はマスク、フェイスシールドの着用とした。
懇親会は着席による形としたため、当初は3校の交流がうまくできるか心配したが、
年次の近さで3つのグループに分け、各グループに各校参加者が分散したため、各々の
グループで会話もはずみ、大いに盛り上がった。

 懇親会は、最高齢参加者の山口氏の乾杯発声で始まり、各大学幹事から活動状況の報告
のあと参加者の自己紹介を行った。その中で一橋大の佐藤氏から、三商大謡会は昭和32年
に始まったなど、三商大の歴史について披露があった。

 会は予定通り午後5時に全員での高砂千秋楽を謡い盛会のうちに終了した。
 なお、次回は2023年12月3日(日)とし、幹事校は一橋大となる。
                                                                                                             以  上 

(注) 当日 高橋雅晴さんが欠席となったため、「融」のワキを伏見正章さんが、「紅葉狩」の地頭を谷村鉄郎さんが務めました。


                                                                                           2022年7月2日(土)
        全国大学学生・OB・OG能楽合会謡会に参加
                                 東京凌霜謡会

 第34回となる「全国大学学生・OB・OG能楽連合会謡会」(7月2日・矢来能楽堂)に
神戸大学OBとして、東京凌霜謡会のメンバー5名(向濱・高橋・清見・谷村・山本)が参加し、
午後3時から「忠度」のサシ・クセ・キリを神戸大学観世流として謡いました。
観世流合同連吟「富士太鼓」は午前中の番組であったため、当謡会からは山本氏が子方
として参加するだけとなりました。
 3年前の第31回に初参加後、コロナ感染の拡大に伴う行動制限のため、当会は参加を
見合わせておりましたが、その間に謡会の呼称も「全国大学学生・OB謡会連合会」から
「全国大学学生・OB・OG能楽連合会」に変更になっていました。
また、コロナ禍のせいか参加団体も、我が謡会を含めて、第31回の26大学36クラブから
15大学・20クラブに減っていましたが、反面「宝生流」クラブの増加が目立ちました。
参加流派は、観世・宝生に加え金剛流(京都大学)の3流派で、今回は下掛宝生流(早稲田
大学)の参加はありませんでした。
また、「素謡」と「連吟」だけであった番組も「仕舞」(慶應・宝生、京都大・観世 他)
や「独調」(埼玉大・宝生)、「舞囃子」(法政・観世)なども見られるようになりました。
下記の番組表をご参照ください。
例年どうり終演後に懇親会が開催されたようですが、コロナ禍の行動制限もあり、今回も
当会は参加は辞退しました。
 この会は、例年7月最終土曜日に「矢来能楽堂」で開催しています。


                                  令和元年12月23日

       『三大学卒業生謡会』の発足と第1回会合

                                昭和47年卒 山本秀人

                                           

 この度『三大学(旧三商大)卒業生謡会』が発足し、去る2019(令和元)年11月30日(土)

東京六甲クラブにおいて第1回謠会及び懇親会が開催されました。

《発足の経緯と運営の原則》は次の通りです。

 2019年7月27日に開催され神戸大学メンバーも参加した「全国大学学生・OB・OG能楽

連合会」で、大阪市立大学OBと久闊を叙する中で、「交流会をやりましょう」「一橋さん

にも声かけし、旧三商大で計画しませんか」と云うことになりました。

 大阪市立大学、神戸大学とも月例会(香謡会、東京凌霜謡会)で諮ると共に一橋大学・

如水観世幹事佐藤氏と連絡をとり、各謡会の賛同を得、三大学OBの交流謡会を開催する

ことになりました。9月30日、如水観世会・佐藤さん(43年卒)、香謡会・竹内さん(47年卒)、

東京凌霜謡会・山本(47年卒)の3名が本件担当幹事として初会合を持ち、次のことが取決め

られました。

1. 会の名称は「三大学卒業生謡会・懇親会」とし、香謡会・如水観世会・東京凌霜謡会を

   傘下謡会とする。

2. 謡会・懇親会は原則として年に1回開催することとし、この会の運営を担当する幹事は、

   東京凌霜謡会⇒香謡会⇒如水観世会の順に持ち回りとする。

3. 謡会の内容は原則として、傘下謡会が「素謠」「連吟」各1曲を選曲して幹事謡会に、

   参加者名簿およびお役と共に提出する。

4. 素謡は傘下謡会の「合同素謠」とし、お役と地頭は当素謠を選曲した謡会が担当し、

   地謡は参加者が自由に参加する。地謡に参加しない参加者は観客席で素謠を聴く。

5. 謡会の総所要時間はおおむね3時間程度とする。

6. 謡会および懇親会の会場の選定、番組表の作成、会の運営、会計等は幹事謡会が行う。

7. 会費は金額・徴収方法等を幹事謡会が決定し、諸経費差し引き後の過不足金は次回の

   幹事謡会に引継ぐ。

8. 上記1~7の変更は各回の幹事謡会に一任するが、重要な変更案件は傘下各謡会の幹事

   と協議する。

《第1回 三大学卒業生謡会・懇親会》の概要は次の通りです。

日 時:2019(令和元)年11月30日(土)  12:30~15:30(謡会)~17:00(懇親会)

場 所:神戸大学東京六甲クラブ 

参加者:合計21名 香謡会=8名、如水観世会=6名、東京凌霜謠会=7名 (カッコ内は卒業年)

 香謡会   =平井輝夫(35)、山口隆生(35)、宮澤博臣(37)、軽森亮弌(40)、仲元俊二(40)、

         田中重昴(41)、杉本雄彦(42)、竹内一(47)

 如水観世会 =伊東昭(38)、福田潤弥(39)、品川洋次(42)、佐藤佑治(43)、阿左見隆雄(45)、

         渡辺優(46)

 東京凌霜謠会=西山孝之(30)、向濱幸雄(44)、高橋雅晴(44)、清見嘉朝(44)、谷村鉄郎(46)、

         山本秀人(47)、伏見正章(52)

次第:

 11:30  受付開始(受付で会費¥5,000《会場費+懇親会費》を徴収)

 12:30  謡会開始《番組は別紙「番組表」をご参照》《写真は別途「アルバム」に掲載》

      連吟はそれぞれ日頃の稽古の成果が覗われ、よく揃って大変心地よい3曲でした。

      また、合同素謠は十数名の地謡が力強く迫力ある3曲が披露されました。

 15:30  謡会終了後、直ちに「懇親会」を開始。

      会場は謡会と同様、「東京六甲クラブ」のロビー(クラブ出入口と大部屋に隣接)で、

      各謡会の現状が報告され、参加者の特徴ある自己紹介や50年以上前の学生時代の

      活動の話題などで大変盛り上がり、閉会時刻を30分延長して、

 17:00  懇親会終了。来年(幹事=香謡会)の再開を約して散会しました。


          第1回 三大学卒業生謡会のご案内

 

表題につき、下記の通りご案内申し上げます。

 

          第1回 三大学卒業生謡会の開催

日時:2019(令和元)年11月30日(土)  12:30~15:30(謡会)~17:00(懇親会)

 

場所:神戸大学東京六甲クラブ 別添「会場案内」をご参照ください

(注)各自、昼食を済ませてからご入場ください。(ビル内にも立ち食い蕎麦、丸亀製麺等があります)

下記の通り懇親会開始時刻は15:30頃ですので、昼食は軽めになさることをお勧めします。

 

次第: 11:30  受付開始(受付で会費¥5,000《会場費∔懇親会費》をお支払いください)

         12:20迄に受付完了願います。

    12:30  謡会

            東京六甲クラブ内の大部屋で長机・椅子の形式で行います。

            服装は自由です。扇の使用も自由です。

            合同素謠の地謠は自由参加です。極力ご参加ください。

    15:30~17:00

         懇親会 謡会終了後、直ちに隣室で開始します。

           終了後、近くの居酒屋で自由参加の二次会を開催予定です。

           こちらにも是非ご参加ください。

                                 以上

                第1回 担当幹事 東京凌霜謡会 山本秀人


東京凌霜謡会のあゆみ                       
                       
 平成31年1月11日、段野治雄さん(S40)及び武内安雄さん(S46)のご協力を得て、神戸大学の           
六甲台にある凌霜本部を訪れ、会誌「凌霜」のバックナンバーから、「東京凌霜謡会」に関する

記事のピックアップ作業を行った。                       
 その際に判明した「東京凌霜謡会」およびその関連記事について整理し、ここに「東京凌霜謡会

あゆみ」として記録してみた。既に会員の皆さんがご存知のことも多いと思われるが、一部でも

新しい発見があり、60数年に及ぶ当謡会のあゆみと営々と引継いでこられた諸先輩の御尽力に思い

馳せて頂ければ、まことに光栄である。

【昭和初期の活動】                       
 会誌「凌霜」に「凌霜謡会」の投稿記事が最初に登場するのは、1927(昭和2)年である。                       
時安一郎氏(5回生)はじめ幹事8名の方が、凌霜会員のうち謡曲に興味を持つ19名の神戸高商OBを                
探し出し、謡会開催の案内状を出したところ、9名の方の参加を得て、1927(S2)年11月13日大阪西            
長堀の三菱倶楽部で初回の凌霜謡会を開催した。番組は素謡「竹生島」「蝉丸」「弱法師」                  
「井筒」「頼政」「紅葉狩」の6曲と、仕舞「松風」「天鼓」「蝉丸」「鵜飼」「松虫」の5曲で

あった。初回の参加者はすべて観世流の愛好者であったが、この会を「自由な謡会」と位置付けて、

他流派の謡曲愛好者にも広く参加を呼び掛けた。*1  《*nをクリックすると「凌霜」の該当記事にジャンプします。》                     
 その結果1928(S3)年1月22日の第2回謡会(於高麗橋の日本生命倶楽部)には13名の参加があり、               
素謡「東北」はじめ9曲を謡った。この時の幹事には、長谷川輝世鷙氏(2回生)、時安一郎氏(5回生)、           
吉川貢氏(9回生)、大平千吉氏(11回生)、大久保銀太郎氏(11回生)、伊藤則忠氏(11回生)、井上和吉氏          
(12回生)、栗岡治作氏(15回生)、吉田英三郎氏(18回生)の9名が名を連ねている。*2                       
 その後、第3回の謡会が同年3月18日に計画されたが、諸般の事情で5月27日に延期して開催する              
旨の予告が投稿されている。*3 但し、5月27日の開催実施の記事は見当たらず、この第3回の謡会              
が開催されたかどうかは定かではない。

 

 上記は関西における活動であるが、おなじ頃東京での活動としては会誌「凌霜」に帝都謡曲の               
研究会」の開催が案内されている。その内容は、                       
一、    時     昭和3年2月5日                   
一、    番組  加茂、俊寛、松風。三輪、安宅、東北、蝉丸、猩々。七騎落、弱法師、絃上。鉢木、羽衣。               
            外に獨吟、仕舞、狂言 ご随意。 各流派全部歓迎。                   
一、    會費  金貮圓以内                   
一、    場處  上野公園又は芝公園内茶亭                    とある。
 『東京朝日講堂の年中行事として、謡曲5派各宗家の連合の會が催ほされて帝都斯界は・・・・              
賑はひを見せて居る。長閑なる春の日、素影寒香の裡、半日の遊を共にせんとす、來れ友よ!』と                
(日本毛織) 音申吉、(東京朝日) 井上貴與記、(正和洋行) 關次吉、(三興商會) 鈴木寛一 の4氏が           
凌霜会員に呼びかけている。*4 但し、この研究会開催実績の記録は残念ながら見当たらなかった。

【東京凌霜謡会の創設】                       
 1933(S8)年の5月に満州事変は終結したものの、1937年の盧溝橋事件以降日中戦争に突入し、               
南京国民政府樹立へ向かう長期戦の様相を呈していた時期であったが、1938(S13)年9月15日発行               
の「凌霜」第86号にD氏(伊達泰次郎氏と思われる)が、『名にしおう音申吉大人を擁しながら、

素謡會もなしとはいといぶかしきことどもなりと言ふ人の出て來たりて、・・・・』1938(S13)年

7月21日、愛宕山麓の郵船の倶楽部で大人を地頭に押し立て「東京觀世流素謠會(試會)」を開催

したことを報じている。                       
賀來(1回生)、音(6回生)、伊達(6回生)、松川(10回生)、中島(11回生)、田中(16回生)の6氏が参集し、         「三輪」「兼平」「千手」「阿漕」4曲の素謡が音氏を地頭として謡われた。*5                       
 上記の素謡會は試會とされているので、この会の発起人たちは定例の素謡会への発展を期して               
いたものと推量される。しかしながら戦時中の混乱の中、この会の継続は叶わなかったのであろう。            
日本毛織の支店長であった音氏に関しても「ソ聯の漂流機雷のため日本海に於いて、商船氣比丸が                
爆沈し・・・」同氏がその遭難者として報じられたが、その3日後に救助され神戸に無事帰着の報告に、            
クラス会が『生還記念祝賀会』として開催された旨の投稿記事なども「凌霜」に見受けられた。*6                
 太平洋戦争も1945(S20)年8月に終戦を迎えた。終戦の混乱期にも拘らず、音氏ら謡曲愛好家達は
1949(S24)年頃から凌霜の観世流謡曲の謡会として「ヒマラヤ謡会」を開催していたようだ。1954

(S29)年3月20日に、ヒマラヤ謡会の主要会員を中心として「東京凌霜謡会」が結成された。
 第2代の幹事である高田透氏(10回生)が、1966(S41)年に「能謡を楽しむ(その2)」と題して「凌霜」

に投稿した音氏の追悼文によれば、                       
 『音氏は、東京うたひ会の創始者であった。この会の前身は「ヒマラヤうたひ会」であって、

これは昭和24年頃以来継続していたが、昭和29年に「凌霜うたひ会」に改名された。その当時の

情況は音氏が残したこの日の手記(次の《 》内)によって明らかである。

  《凌霜第6期の伊達、日塔、竹内、音、久々江が観世流の謡を嗜んで居るので、2年程前から毎月

 1回謡会を楽しんだ。ヒマラヤうたひ会と称した。追々凌霜同人が参加して今では十数人を数え

 るようになったので、此月から凌霜うたひ会と改めた。京浜が開催地である為、自然、観世流を

 習って居る者が多いが、宝生流の江波戸君が熱心に参会されるし、金春流の井上貴与記君が来会

 されることもある。今は引続き日本毛織の白金寮で土曜の半日を楽しみ、会後簡単に盃を交わし

 て歓談する事にしている。・・・・・・ 》 ・・・・ 』  *7                      

                       
 (注1)    創設日と参加者・番組について                   
      第4代幹事の安村慶次郎氏は、1978(S53)年8月1日発行の「凌霜」第260号の5月例会(第250回)の投稿記事

      の中で「5月例会は、当会が昭和29年に音申吉、高田透氏等により結成せられ、・・・・・・実に250回目の例会

      に当った。」*8 と記述している。

       また高田氏自身は、上記のとおり結成日を1954(S29)年3月20日としており、ご自身も「私が初めて 音氏          
        に接したのは昭和二十九年ごろ日毛の白金寮の謡会の席上で音氏他十名余りの方々に紹介された時であっ

      た。・・・・・・ 私が音氏から幹事役を引継いだのは、・・・・・・ 昭和三十三年春の頃」*9 としている。

      創設日に日毛寮に集ったのは三田村明、伊達泰次郎、沢木正太郎(如水会)、松本幹一郎、久住昌男、音申吉、

      西川清 及び高田透夫妻の9名で  「嵐山」「忠度」「千手」「隅田川」「鞍馬天狗」のほか囃子「笠之段」

         「熊野」を演じたと記録されている。*7

                   

 (注2)    会名の表記について                   
      当会の会名については「東京凌霜謡会」や「東京凌霜うたひ会」「東京凌霜うたい会」などいろいろな

     表記がある。 高田氏の表現は一貫して「うたひ会」であるが、他の投稿者の大半は「謡会」で、たまには

     「うたい会」と表記する人もいる。 創始者の音氏は「凌霜謡会」と記録されているようなので、この「東

     京凌霜謡会のあゆみ」の中では、引用文を除き、「謡会」と漢字表記する。                   

                       
 (注3)    「東京凌霜謡会」の前身の組織について                   
        当会の前身組織として、柳原仁哉氏(S25)が平成21年の会誌「凌霜」に『最初は神戸高商時代の謡曲部の

     名称を踏襲して「天狗会」と称されていたのが、その後「東京凌霜謡会」と変更された』と投稿している。*10                  

        また、内海実氏(S2)の「第8回凌霜関西謡曲大会」の投稿記事(1967.07.07発行)によると『私は昭和二年卒

     ですが、筒井ケ丘在学の4年間・・・・謡曲は観世流の鞍馬会があり其名の如く天狗揃いでした。』とある。*11           

        柳原仁哉氏ご自身に記述の根拠を尋ねてみたが記憶にないそうなので、ここでは創始者の音氏の手記に

     基づいて当会の前身は「ヒマラヤ謡会」として話を進めることにする。 

                  

 (注4)    創始者の音氏の経歴・人となり等大変興味深いものがあるが、その調査・記録は別の機会に譲る。 

 

 1954年3月20日の「東京凌霜謡会」の創設後、毎月1回の謡会が土曜日の午後、日本毛織白金寮

開催されてきたようであるが、具体的な開催内容は「凌霜」には投稿されていない。但し、創始者

音氏が、1956(S31)年5月1日発行の「凌霜」に「世話人音生」の名で、前年2月の明治礦業熱海寮で

別会、7月の葉山の松本氏別邸での別会および同年2月の三菱養和会の熱海小嵐荘での別会を、

各々1泊2日で実施したことを詳細に記述している。*12 

 いずれの別会でも9~10数名の参加を得て、番謡・素謡10曲程度と一調・番囃子・仕舞等多彩な番組が

掲載されており、かなり活発な活動が行われていたものと想像される。

 

凌霜謡会の東西交流】

 このように活発な活動を続けてきた「東京凌霜謡会」であったが、1960(S35)年には最長老の伊藤

述史氏(1回生)が、1962(S37)年には創始者の音申吉氏が逝去された。1958年に第2代目の幹事に就任

した高田透氏が「故伊藤述史氏と謡会」「能謡を楽しむ」と題して、両氏の追悼文を会誌「凌霜」

投稿している。*13  高田透氏はこれを機会に会員の謡曲・能についてのアンケートを実施して、

謡を始めた時期・動機、師匠名、能実演の経験、能・謡曲等に関する感想等を「凌霜人謡曲歴調べ」

として「凌霜」に投稿している。 当初は東京会員の謡曲歴等の調査を始めたようだが、東京方面の

会員だけだは片手落ちであると気づき、関西側の幹事役であった井口宗敏氏(T11卒)にお願いして

関西の会員各位の謡曲キャリアを取りまとめていただき、関西会員を含めて大正7年卒以前の35氏

謡曲歴が「凌霜」に7回に亘って連載されている。*14                       

 このアンケートが契機になったのか、東西謡会の交流が続けられたらしく、1971(S46)年11月13日

神戸大学の学生会館で初めて東西合同凌霜謡曲大会が開催された。この記録によれば西側幹事の井口
・藤尾・谷本3氏の非常なお骨折りによって開催が実現したようである。東側からは西村二郎氏(T7) 、           
安村慶次郎氏(S4)、高岡幸彦氏(S19)が参加されている。(高田氏は1966(S41)年12月29日逝去、東京

の幹事は3代目=西村氏、4代目=安村氏) 謡会終了後は、参加した現役学生諸君も交えてコンパが

れ、東西の凌霜謡会の現状報告等々で歓談したようである。*15                       

 現在も東西交流が続けられていることに鑑みれば、以降も東西交流は継続的に行われてきたはずで

あるが、残念ながらこの「東西合同凌霜謡曲大会」以外の「凌霜」投稿文は発見できなかった。 

                   

【東京凌霜謡会の変遷】                       

(1) 会員と番組について                       
 創始者音申吉氏の手記にあるように、観世流謡会であった「ヒマラヤ謡会」から「東京凌霜謡会」

へ改称した主たる目標は謡曲を愛する会員による自由な会とすることであった。流派にこだらず、

謡曲愛好家に広く呼びかけた結果、宝生・喜多・金春等の各流派からも数人の参加が見られた。

彼らによる謡会の番組を見ると、素謡や独吟だけでなく、一調・番囃子・仕舞・囃子等種々の演目

毎回の謡会で演じられた。会員のご夫人方も多く参加され、厳格な中にも華やかな会の雰囲気が

うかがえる。                   

    しかし創設当時の会員が次第に亡くなっていかれる中、他流派からの新会員の参加もなく観世流

の会員のみになってゆき、1970年代後半(昭和50年代前半)頃から次第に観世流の愛好家による素謡

のみの番組編成になっている。                   

    会員数の推移は定かではないが、音氏による「凌霜」への投稿記事によれば、登録会員数が40名

超、当初の2年間に謡会に参加した人として26人の個人名を掲載している。*12 毎回の出席人数を見

ても、1960(S35)年頃までは常時20人前後であったが、1967(S42)年4月8日の「高田透氏追善謡会」*16

29人をピークに、次第に10人前後の参加に減少していった。                   

  1994(H6)年頃からは参加者数10名以下が続き、素謡の曲数を減らす月例会も散見される。

2003(H15)年頃には出席可能者があまりに少なく、休会とせざるを得ないケースあったようだ。

同年12月には登録凌霜会員が僅か9人となり、当時地元で観世流の名誉師範をされていた高岡幸彦氏

(S19)がお弟子さん名をビジターとして迎え、謡会の存続に尽力された。*10              

  2018(H30)年12月末時点の会員数は、神戸大学卒業生13名(うち、2名は6か月超欠席中)、ビジ

ター3名で合計16名となっており、引続き毎月1回、素謡5曲を謡って楽しんでいる。                   

   現役学生部員の減少にも見られるように愛好家全体が減少する昨今、会員が常に留意して当会の

会員増強に注力していくことが肝要と思料する次第である。                   
                       
(2) 謡会の役職について                       
    当会における役職については、創設当初から明確には規定されていない。創始者の音氏はご自身で

「世話人」として「凌霜」に投稿しているが、会員からはいつの頃から「会長」と呼ばれていたよう

である。音氏の死後、臼井経倫氏(T4卒)が「会長」職を継承し、*17 死亡時(1976年)迄その任に当た

られた。1975(S50)年6月の例会報告以降に「会長」の名は記載されておらず、会長職は同氏の逝去と

ともに廃止されたものと思われる。                   
  世話人(役)・幹事の使い分けも定かではなく、在任期間もはっきりしない。呼び方は兎も角、初代

の幹事は創始者の音申吉氏(M45卒、1962年8月逝去)で、同氏父子が特殊ポンプ(日本機械計装=

日機装株式会社の前身で、同氏は日機装の初代会長)の事業を始めて忙しくなった1958(S33)年春頃に

第2代幹事高田透氏(T5)に引継がれた。*9                   
  高田氏もまた大変興味深い人である。観能、能楽書の勉強に非常に熱心で、特に拍子の研究を極め、

自ら創案の「地拍子五指法」を以って会員の謡曲を指導した。*18         御園夫人も常時謡会に参加され、

透氏の逝去後もこの五指法を参加会員に教授されたようである。                   

 1966(S41)年12月、高田透氏逝去の後、西村二郎氏(T7)が第3代目の幹事を引継いだ。「謡曲の思い

出」と題する「リレー・随想ひろば」の中で、音会長、高田幹事を追想しており、『両御所の謡曲は

言わずもがな、会の運営、指導に妙を得、・・・会の発展に寄与せられた』と絶賛している。就任日は

「故高田氏のあと」とあるので1967(S42)年の初頭と思われる。*17                   
 1968(S43)年末に西村氏の京都転居に伴い、第4代の幹事として安村慶次郎氏(S4)が就任することと

なった。  安村氏は永年に亘って謡会の運営にご尽力いただいたようである。                   
 1978(S53)年5月、安村氏の任期も10年が経過し、第250回記念大会を機に渡辺藤四郎氏(S13)に幹事

役は引継がれた。*8                

 その後、1986(S61)年渡辺氏から大角征矢氏(S29)へ引継がれた。渡辺氏の投稿記事は原則として

「幹事」の役職が付られている。大角氏の投稿は、すべて「大角」と個人名だけで 行われており、

大角氏の役職名は不詳である。後述の四方氏以降は「世話人」を称していることから、本資料では、

渡辺氏以前を「幹事」、大角氏以降を「世話人」として記述する。                   
 1993(H5)年、大角氏の福岡転勤に伴ない、再度渡辺氏が世話役を引受けられた。*19                   
    その後、渡辺氏から四方常義氏(S33)へ世話役は引継がれたが、時期は不詳である。                   
 1998(H10)年1月頃に世話役は四方氏から柳原仁哉氏(S25)へ、2007(H19)年末に西野公三氏(S33)

へ引継がれていった。*10                   
  現在は、2017(H29)年4月から西野氏の後任として向濱幸雄(S44)が世話役を担当している。                 
                       
(3) 会場について                       
  謡会の会場については、幹事・世話役がいつもご苦労されていたようである。創設時には、創始者

音申吉氏が勤務する日本毛織白金寮を例会会場として借用し、年2回の別会は松本幹一郎氏(T11)のご

配慮で明治礦業熱海寮や同氏の別邸、臼井径倫氏の斡旋による三菱養和会熱海小嵐荘などで1泊2日の

謡会を行っている。*12*20

 音氏の日本毛織退職の頃と思われるが、月例会の会場は日本毛織の白金寮から代々木八幡の渋谷区

民会館、窮余の策として成城の喫茶店の2階を借りたりしながら、例会開催を続けた。*14*17

1959(S54)年頃と思われるが、出光興産大久保寮が継続して借りられるようになり、以降約20年に

亘って利用させて頂いたようである。後に高田・西村両氏が「凌霜」の紙面で、出光氏のご好意に深く

感謝の意を表している。*9*17                   

 しかしこの出光興産大久保寮も、1978(S53)年には改築の話が持ち上がり、10月以降は使 用不可と

なった。幹事はじめ会員の努力にも拘らず、10月例会は会場を見つけられず休会となった。 岡田

茂義氏(S4)らの奔走のよって、11月から銀座の交詢社の日本間を借りられるこができて、無事例会

再開が可能となった。*21   それでも交詢社の都合の悪い時は、日立 大﨑クラブや小石川別館、

新和海運白金クラブなどを利用させていただいたようである。                   
 1999(H11)年4月例会は上記の交詢社で開催されたが、以降2000(H12)年9月例会が国際善隣協会ビル

5階での開催まで、「凌霜」への投稿記事が見当たらなかった。この間も月例会は続けられてきたと

思われるが、この1年数か月の間に理由等は定かではないが、月例会の会場が変更されている。                 
 2002(H14)年7月からは、日比谷帝劇ビルB2の東京凌霜クラブで開催されるようになった。                   
    なお、東京凌霜クラブは2011(H23)年4月に、六甲台3学部の卒業生を対象とする組織から全学部の

卒業生を対象とする組織に変更されたため、「東京六甲クラブ」へと改称さている。偶には日程変更

を強いられるが、会場探しに奔走する必要のない現状に感謝したい。                   
                       
 なお、会誌「凌霜」のバックナンバー調査で、1976年2月1日発行の第250号に里井三千雄氏(S31)            
による「東京風韻会発足の御知らせ」と題する投稿 *22 があったが、関連記事が全くないため今回               整理の対象外とした。                       
 何分、私の入会前の東京凌霜謡会のあゆみについてはわからないことばかりで、上記の記述に転写

のミスや誤解、あるいは失礼な記載がないか心配している。ご一読いただき、ご指摘やご指導を賜る

ことができれば誠に幸甚に存ずる次第である。                       
                                                            以上

    2019(H31)年3月24日                   

                              (東京凌霜謡会世話人) 向濱幸雄

 

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                                     会誌「凌霜」の参照記事
No. 発行年月日  号   投稿者名  タイトル
*1 1927.11.25 第 22号 時安一郎 他 凌霜謡會
*2 1928.03.? 第 24号? 長谷川輝世鷙 他 第2回凌霜謡會
*3 1928.05.? 第 25号 長谷川輝世鷙 他 第3回凌霜謡會豫告
*4 1928.01.01 第 23号 音 申吉 他 帝都謡曲の研究会
*5 1938.09.15 第 86号 D生(伊達?) 東京観世流素謡会試會の記
*6 1942.03.03 第102号 田中 音申吉君生還祝賀会(S11.11.14)
*7 1966.01.25 第196号 高田 透 能謡をたのしむ(その2)
*8 1978.08.01 第260号 安村慶次郎 5月例会(第250回)
*9 1962.09.05 第167.号 高田 透 音申吉氏と謡曲(上・下)
*10 2004.?.? 第?号 柳原 仁哉 東京凌霜謡会
*11 1967.07.01 第?号 内海 実 第8回凌霜関西謡曲大会
*12 1956.05.01 第139号 (世話人) 音 生 東京凌霜謡会消息
*13 1960.05.05 第162号 高田 透 伊藤述史氏と謡会
*14  1965.11.05 第195号 高田 透 能謡を楽しむ(その1)
  1966.01.25 第196号 高田 透 能謡を楽しむ(その2)
  1966.04.20 第197号 高田 透 能謡を楽しむ(その3)
  1966.07.01 第198号 高田 透 能謡を楽しむ(その4)
  1966.09.01 第299号 高田 透 能謡を楽しむ(その5)
 

1966.11.05

1967.05.01

第200号

第202号

高田 透

西村 二郎

能謡を楽しむ(その6)

能謡を楽しむ(その7)

*15 1972.01.01 第227号 (東京)安村 東西合同凌霜謡曲大会
*16 1967.07.01 第204号 西村 二郎 高田透氏追善謡会
*17 1971.07.01  第224号 西村 二郎 謡曲の思い出

*18

1969.11.01 第215号 安村慶次郎 東京凌霜うたい会

 

    (西村二郎氏の文章抜粋) 文中「音、高田両氏を追想して」
*19 1993.08.01 第320号 大角 東京凌霜謡会(第425回~) 
*20 1954.05.10  第154号 凍瑠生(高田透) 凌霜うたひ会(東京)熱海別会

*21

1979.02.01 第262号 幹事 渡辺 東京凌霜謡会(1978/10~12月)

*22  

1976.02.01 第250号 里井三千雄 東京風韻会発足の御知らせ
         
         
       

 《上記の *n をクリックすると会誌「凌霜」の該当記事へジャンプします》

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(参考資料1) 神戸大学の変遷

                     (  https://ja.wikipedia.org/wiki/神戸大学#沿革 外より抜粋 )

  西暦    和暦  月        事     項

 1902      M35      3  勅令第98号 により「神戸高等商業学校」設立             

                              ・修業年限=4年(予科1年・本科3年)

                                 ・本科終了後専攻部(2)は神戸高商と東京高商の卒業者だけが進学可能、

                                専攻部修了者には「商業学士」が授与された。

                               ・初代学長=水島銕也(1903.01.09-1907.05.15、復職1908.202.25-)

                               ・学舎=神戸市葺合町筒井村(.中央区野崎通)

                                              学生からは「筒台(とうだい)」と呼ばれ、親しまれた。                                

                                                    現在は、市立筒井小学校、市立筒井台中学校、市立葺合高等学校、

                                                                    神戸海星女子学院 の敷地となっている。

 1903      M36       5     授業開始 = 現.神戸大学の創設記念日        

 1906                         『国民経済雑誌』(日本最初の経済学・商業学専門の学術雑誌)創刊

 1923                   3      46回帝国会議で神戸高商の大学昇格が決定  

 1923                   9       関東大震災により昇格事業は2年延期 

 1924                            同窓会として「凌霜会」結成                                                         

 1929                   4       神戸高商を母体に「神戸商科大学」が設立        

 1935      S10                学舎移転 筒台  六甲台

 1943                 10       学生の徴兵猶予が停止             

                          11      出陣学徒壮行会挙行

 1944                 10       神戸商科大学を「神戸経済大学」と改称             

 1947                   6       官立大学初の夜間部として第2学部(就業年数=3)を設置

 1949                 5       国立学校設置法公布により「新制神戸大学」が設立され、神戸経済大学を包括

                                      (19623月に神戸経済大学は廃止)

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 (参考資料)

  

卒業年度表

                       
                             
                             
        卒業年           回生          卒業年   回生       卒業年 回生
       西暦    和暦 高商 商大 新大   西暦  和暦 商大 新大   西暦  和暦 新大
  1901  M34         1941   S16 学12     1981   S56 29
  1902 35         1942       17 学13     1982     57 30
高商Start 1903 36         1943     18 学14     1983     58 31
  1904 37       経大へ改称 1944     19 学15     1984     59 32
  1905 38         1945        20 学16     1985     60 33
  1906 39         1946     21 学17     1986     61 34
  1907 40 1       1947     22 学18     1987     62 35
  1908 41 2       1948     23 学19     1988      63 36
  1909 42 3     新制Start 1949     24 学20     1989 H   1 37
  1910 43 4       1950     25 学21     1990       2 38
  1911 44 5       1951      26 学22     1991       3 39
 

1912

  45  6       1952     27 学23     1992       4 40
    1913  

  T  2

7       1953     28   1   1993       5 41
  1914    3 8       1954     29   2   1994       6 42
  1915    4 9       1955     30   3   1995       7 43
  1916    5 10       1956     31   4   1996       8 44
  1917    6 11       1957     32   5   1997       9 45
  1918    7 12       1958     33   6   1998      10 46
  1919    8 13       1959      34   7   1999      11 47
  1920    9 14       1960     35   8   2000      12 48
  1921   10 15       1961        36   9   2001      13 49
  1922   11 16     経大End 1962     37   10   2002      14 50
  1923   12 17       1963     38   11   2003      15 51
  1924   13 18       1964     39   12   2004      16 52
  1924   14 19       1965     40   13   2005      17 53
  1925    T15 20       1966     41   14   2006      18 54
  1926

   S  2 

21       1967     42   15   2007      19 55
  1927     3 22       1968     43   16   2008      20 56
  1928     4 23       1969     44   17   2009      21 57
  商大Start 1929      5   学 1     1970     45   18   2010      22 58
  1931      6   学 2     1971     46   19   2011      23 59
  1932      7   学 3     1972     47   20   2012      24 60
  1933      8   学 4     1973     48   21   2013      25 61
  1934      9   学 5     1974     49   22   2014      26 62
  1935     10   学 6     1975     50   23   2015      27 63
  1936     11   学 7     1976     51   24   2016      28 64
  1937     12   学 8     1977     52   25   2017      29 65
  1938     13   学 9     1978     53   26   2018      30 66
  1939     14   学10     1979     54   27   2019   R 1   
  1940     15   学11     1980     55   28   2020        2  

 


 

 

                                2018年7月28日(土)

        全国大学学生・OB謡曲連合会謡会に参加
                                 東京凌霜謡会

 第31回となる「全国大学学生・OB謡曲連合会謡会」(7月28日・矢来能楽堂)に神戸

大学OBとして、東京凌霜謡会のメンバー6名が参加し、「敦盛」サシ・クセ・キリを神戸

大学観世流として謡うと共に、観世流合同連吟にも参加し「竹生島」を全国の大学OB約

20名と謡いました。(44年卒:向濱、高橋、清見 46年卒:谷村 47年卒:山本 52年

卒:伏見)
 2年前から、個人参加で谷村、山本が名古屋大学と合同で参加していましたが、今年か

ら、神戸大学として正式にエントリーいたしました。
 この会は、例年7月最終土曜日に「矢来能楽堂」で開催し、年々参加者が増えています。

今年は、個人参加も含め26大学36クラブのOB/OG、108名が参加しました。
流派は、観世・宝生に加え金剛流(京都大学、同志社大学等京都の大学5校)下掛宝生流

(早稲田大学)と4流に及びます。
*下掛宝生は、関西ではほとんど見かけませんが、関東では珍しくありません。大学のク

ラブへの新人勧誘の決め台詞は「夏目漱石も習っていた流派」との事です。
例年は、謡会終了後懇親会で、各大学毎のエピソードで盛り上がるのですが、今年は残念

ながら台風の影響で中止になりました。

 

 尚、参加メンバーから、「OGも多いのに、OB謡曲連合会とは如何なものか?」という

今日的な問題が提議され、来年から会の名称が変更される予定です。
*この会の発起人には、日本女子大、実践女子大が名を連ねており、当時は「OB」に違和

感がなかったようです。

 全国大学学生・OB謡曲連合会
昭和六十三年 学生能楽の興隆と大学・流儀の垣根を超えた交流を目的として謡会開始。
平成のあゆみと共に謡会の回数を重ね、今回が第三十一回、平成最後の大会となります。
参加校(五十音順、過去の謡会参加校、個人参加を含む)
学習院大学       観世流           同志社大学       宝生流                                   
金沢大学        宝生流       同志社大学       金剛流                                   
京都大学        観世流           同志社女子大学     金剛流                               
京都大学        宝生流           名古屋大学       観世流                                   
京都大学        金剛流           日本大学        観世流                                     
京都外国語大学     観世流         日本大学        宝生流                                     
京都女子大学      宝生流           日本女子大学      観世流                                 
京都女子大学      金剛流       日本女子大学      宝生流                                 
慶應義塾大学      観世流           ノートルダム女子大学 金剛流                          
慶應義塾大学      宝生流           一橋大学        宝生流                                     
神戸大学        観世流           法政大学        観世流                                     
神戸女学院大学     観世流         明治大学        観世流                                     
埼玉大学        宝生流           横浜市立大学      宝生流                                 
実践女子大学      宝生流           立命館大学       観世流                                   
成城大学        宝生流           早稲田大学       観世流                                   
東京大学        観世流           早稲田大学       宝生流                                   
東京大学        宝生流           早稲田大学       下掛宝生流                               
東京教育大学      宝生流                                                  
東京工業大学      観世流


神戸大学東京六甲クラブ」と「東京凌霜謡会」の相互リンクしました(トップページ下部より)

京六甲クラブ便り 6月号」(PDFファイル)に

東京凌霜謡会が紹介されました。

3.サークル紹介
(3) サークル紹介「東京凌霜謡会」
 東京凌霜謡会は、神戸大学の観世流謡曲クラブの卒業生を中心に

毎月、原則として第4土曜日の午後に、同好の会員が東京六甲クラブに集い、

毎回5番の素謡を全員で謡っています。

謡会の発足は昭和24年で69年の歴史があります。今年の5月例会が第735回です。

現在の会員は、昭和25年卒の大先輩を筆頭に15名で、学生時代にクラブ活動で

経験した人も、卒業後にはじめて謡曲を習われた方もいらっしゃいます。

休憩をはさみながら、毎回約4時間、おなかの底から声を出してみんなで

楽しいひと時を過ごしています。学生時代に経験された後しばらくお稽古を

なさってない方、能や謡に興味を持って卒業後に謡曲を始められた方、

私たちと一緒に謡ってみませんか? お気軽に下記までご連絡ください。

なお、会費は参加時に¥1,000いただきます。また、関西地区の「凌霜謡会」と

合同でホームページを開設しています。是非一度ご覧下さい。

神戸大学謡曲愛好家広場」(https://kobe-u-youkyoku.jimdo.com/)

 2018年6月15日    東京凌霜謡会 世話人:向濱幸雄(S44年 経済学部卒)

 

※「神戸大学東京六甲クラブ」HP左横クラブ案内>>>東京六甲クラブだよりに

掲載されました(PDFファイル)。なお、先方から、こちらへのリンクできます。

又、向濱さんの、携帯電話番号、メールアドレスは本欄では割愛しておりますが

本HPの「お問い合わせ」でご連絡頂ければ、対応できます。


 

           東京凌霜謡会第700回月例会を無事に終えて
                                                                                   世話人 西野公三(昭和33年卒)
 東京凌霜謡会は6月27日の月例会で発足以来700回となりましたこと誠に喜ばしいことであります。

60年近くに亘り毎月1回途切れることなく続けられて来た結果であり、多くの先輩方の謡曲に対する

情熱とご努力によるものです。

 とりわけ現在の会員の高岡幸彦氏(昭和19年卒)は名誉師範でもありお弟子さん方を会に参加させて

会の継続に尽力され、柴田栄一氏(昭和25年卒)や柳原仁哉氏(昭和35年卒)らが運営に御努力されて

来たことがあってこそと感謝しています。

 現在は昭和30年卒とりわけ昭和43年卒以降の会員が増えて、会に新しい風を吹き込んでくれている

ことは心強い限りです。

 会員の大半は旧風韻会のOBであり,大阪の凌霜謡会の皆様とルーツを共有しているものです。

 謡の息もよく合っていて、これからも交流を深めて謡曲をいつまでも楽しんでゆきたいものです。

                                                           以上

                                       


        平成27年3月例会風景

                     山本秀人(S47年卒)

2015年3月21日13時開始、会場は「東京六甲クラブ」です。
東京六甲クラブは、帝劇の地下にあり、当日は、

ジャニーズの堂本光一主演の公演があり、周辺は

若い女性で混雑しておりました。(19日に舞台装置

の下敷き事件が起こった公演です)
この中で、93歳から60歳の爺さん集団は奇異な感じを

持たれたかも?
当日は、昭和19年卒高岡さんを筆頭に昭和52年卒の

伏見さんまで、合計12名の参加でした。
曲は、老松、屋島、羽衣、百萬、隅田川の5曲、13時に

開始、附祝言終了は17:05でした。


東京凌霜謡会

                         柳原仁哉(昭25経済)

東京凌霜謡会は平成21(2009)年12月の例会が第634回で、永年毎月休みなく行
われてきた。その発端は、昭和27(1952)年に遡ることができる。昭和26年がサン
フランシスコの対日平和条約締結の年だから、この会はまさに戦後の日本の歴史と
共に歩んだと言えよう。
最初は、神戸高商時代の謡曲部の名称を踏襲して「天狗会」と称されていたのが、
その後「東京凌霜謡会」と変更になつた。当初は新大久保の出光興産のクラブを借
りていた由だが、その後、銀座6丁目の交詢社の和室、新橋1丁目の(社)国際善
隣協会の会議室と移り、7年ほど前から東京凌霜クラブを利用している。
現在の会員は、新潟から年に一度はご参加下さる清野一郎氏(昭14)、高岡幸彦氏
(昭19)、今泉昌長氏(昭23)、柴田栄一氏(昭25)、同年卒の私柳原仁哉、西野公三
氏(昭33)、河野豊氏(昭47)、山本秀人氏(昭47)、織田瑞夫氏(平11)の9名。その
他、高岡氏は観世流の名誉師範でお弟子を持っておられるが、そのうち4名がビ
ジターとして参加され、会員総数は13名。昔は30名ほどのメンバーがおられ、毎
回、盛大な集まりだつたぞうだ。私は13年ほど前から参加して、当時世話役をさ
れていた四方常義氏(昭33)の後を継いで10年ほど世話役を務めたが、昨年から上
記の西野さんが世話役をされている。
 交詢社の頃は、お元気だつた松山緑氏(昭5)、岡田茂義氏(昭7)、大久保治一氏(昭
11)、吉野正三氏(昭12)などとご一緒に、謡会が終わつた後、近くの銀座の安具楽
で盃を交わしての四方山話の中から貴重な人生の教訓を教えて頂いたものだ。昔は、
新年会は交詢社の一流レストランで、和、洋式のフルコースの食事が出て、夫婦お
揃いで参加された方もあり、今から思えば贅沢ができた良い時代であつたようであ
る。これらの方はみんな93乃至96才で亡くなられるまで会に参加しておられた。
謡をやつて居られたからご長命だったのか、お元気だから謡を続けておられたのか
は分らないが、お腹の底から声を出す謡は、心肺機能を強め、ストレス解消に役立
つと言われおり、その良い証しとなろう。
 私たちの先輩が60年近くにわたり途絶えることなく続けてこられたこの東京凌
霜謡会を絶やさないため、東京近郊に在住の神戸大学卒業生で、ご興味のある方は
奮つてご参加下願いたい。原則として毎月第4土曜日の午後1時から5時まで、東
京凌霜クラブの一室で5番を謡うことにしている。気軽に小生まで連絡願いたい。
連絡先 0×4-9××-2××6

 ※ 第9代の世話役柳原仁哉さんが、平成22年に会誌「凌霜」に投稿されたものを転載しました。

 


古い会誌「凌霜」の中に、東京凌霜謡会初期の様子がうかがえる記事がありましたので皆様にご披露します。なおその後 音、高田両氏に関する詳細な記事がありましたのでそれも転載します。
往年の方々は趣味にも大変な努力を払っておられたのですね、私などとても「足元にも及ばない・・」どころではありません。
 前半適宜端折った引用など、勝手な構成はお許し下さい。
                                        段野治雄
        ::::::::::::::::::::::::::
以下 会誌「凌霜」昭和41年1月25日(196号)より引用。

前身は「ヒマラヤうたひ会」。昭和24年頃から始めた。凌霜第6期の伊達、日塔、竹内、音、久々江が集まり、毎月1回謡曲を楽しむ。ヒマラヤうたひ会と称する。
 会員が10数名に増えたので昭和29年3月から「東京凌霜うたひ会」と改めた。
               以上 音申吉氏手記より高田氏が同会誌へ引用

 「昭和29年3月20日に日毛白金寮で催された謡会への出席者の記録を見ると、三田村明、伊達泰次郎、沢木正太郎(一橋出身で元日毛の同僚)、松本幹一郎、久住昌男、音申吉、西川清及び高田透夫妻~~。
 会員の殆どは観世流であること、現在に至るも同様であるが、それでも宝生流の江波戸鉄太郎氏、吉谷吉蔵氏、玉伊辰良氏、山根勇氏、宮保卯吉氏等、また喜多流の松本幹一郎氏、久住昌男氏、藤田寿雄氏等の参加も時々あった。
会場は最初の日毛白金寮から、一時 特殊ポンプ(日機装の前身)の階上、渋谷区区民会館を経て最近はもっぱら出光西大久保寮を拝借しており、また年に2回くらい、箱根、熱海、湯河原等の旅館や会社寮に1泊掛けで遠出を楽しみ~~」
                         ::::::::::::::::::::::::::

          以下 会誌「凌霜」昭和44年11月1日(215号)より引用(全文)

「東京凌霜うたい会」
 当会は臼井経倫氏(大正4卒)を会長とし現在会員47名、毎月第三土曜午後1時より新宿区西大久保2丁目354の出光寮にて例会を開いて居ります。会員の殆どが観世(梅若派を含む)ですが宝生流の人も3名います。本年8月のお盆の日に物故会員特集会報を発行しましたので、その中から前幹事西村二郎氏による「音、高田両氏を追想して」を抜いて本稿としました。

音、高田両氏を追想して  西村二郎
 今日掃苔の日故音申吉、高田透両氏を追想して一文を草する。
 故両氏は我々在京の同窓の中の謡曲愛好者で組織する東京凌霜謡い会の初代及び二代目の幹事であり、高田氏の急逝後2年間私が三代目幹事を勤め昨年末四代目を安村君に譲った。音、高田両氏共謡曲を通じてのお付合であり、音氏の日本毛織、東洋パルプ(在満)における、又高田氏の三井物産、中村機械貿易における御活動等については承知する処も少なく本稿ではふれず、専ら両氏を趣味の面より追想することとする。
 音申吉氏(明治45年卒のヒマラヤ会員)がヒマラヤ会20周年記念(昭和6年)誌上で「謡曲は観世の流を汲む。志のある人には教えて上げても良い。宗家にもその内教えてやろうと思う。能ある鷹は爪を匿すというからこれ以上自慢はせぬ」と言われて既に満々たる自信を示しておられる。そのヒマラヤ会の50年記念誌(卒業50周年昭36)には「今尚謡を教わり続けて発声に余念なく東京凌霜謡い会を主宰して毎朝井戸水で水垢離をとっている」と記されその御精進の生涯に渉りしことを知る。
 又令息鎮夫氏も「残声」に寄せられた「故人を憶う」の中で「父を語るときはどうしても謡にふれなければならない。尺八から謡曲に変ったのはどういう動機で、又何時頃かは知らないが、兎に角父の謡曲は趣味以上のものである。中略、父に謡のあったことはよいことであった」と語っておられる。
 大正末期昭和の初年頃は現在の清水要之助師の先代福太郎師に、或いは故橋岡久太郎師に師事せられ、昭和56年頃には既に素人の域を脱しておられたように思う。剣の達人がその修行に心魂を打込むような稽古振りでその姿や声には古武士的な風格が常に漂っていた。
 晩年には枯淡の味が加わり、些か誇大ではあるが神韻縹渺少くとも超人的であった。今日あのような味を出す謡い手は少なく、又は無いと言っても良いであろう。「残声」付録の独吟景清を再生して聴く度にその感を深くする。
 故高田透氏は音氏に遅れること4年、大正5年の卒業であるが、その謡歴はずっと古く11歳(明治38年)の頃祖父に当られる方より手ほどきを受けられ高砂、竹生島、熊野等十番を無本で覚えられたそうである(東京凌霜謡い会の昭和40年会員キャリヤー調べより)。神戸高商入学前、尾道で約3年観世や喜多を習われ又卒業後(物産大阪支店在勤中)は大西派の観世流を稽古せられたが、何れも惰性的なものであったそうで、本気で稽古に打込まれたのは三井物産青島支店在勤時(大正12年~昭和3年)の足掛5年、梅若派を修められ、この時期に充分なる基礎を会得せられた。
 師は梅若宗家より派遣の黒川正六氏であった由、昭和3年東京に転ぜられたときは既に一家をなされて没年に至るまで特定の師匠には付かれず専ら観世、梅若の会を暇に任せて見学して廻られ、益々その薀蓄を深められた。能は13歳の頃尾道で船弁慶の子方に出られたのが始めての終わりで右手に少し痙攣の気あり、立方には不向きでやられなかったが、その代り観能、能楽書の勉強には非常に熱心で立派に批評家としても通用した。
前記のキャリヤー調べに「能は謡曲、仕舞、囃子を底辺とするピラミッドのようなもので、そのリズム組織は邦楽にも他に例がなく世界にも誇り得るものと思う。最近拍子の研究により謡のこつを会得できた気がする。その結果地拍子五指法を案出した」と言っておられる。高田氏創案の「地拍子五指法」はアウトラインの御説明を承っていただけで遂に理解出来ずじまいに終ったのが遺憾の限りであるが、氏の門下の岡部幸一氏の言を藉れば(経謡会会報第12号所載)「昭和36年春高田透さんに付き地拍子の研究をはじめたことは私の謡歴において画期的な転機となった。やみ雲に素謡をうたっていた過去に比べて謡曲の世界の深遠さに眼を見張り、その仕組の非凡さに感嘆した。我々の偉大な祖先の遺した斯くも素晴らしい音楽の世界に開眼する手引きをして下さった高田氏に絶大の謝意を表する」と述べておられることからしても氏の研鑽の尋常ならざりしことをうかがい知る。その科学的な研究、地道な努力の集積に改めて敬意を表する。
 今や音氏逝って7年、高田氏逝って3年、追憶の念を上記して稿を終る。
                                                                     以上