古い会誌「凌霜」の中に、東京凌霜謡会初期の様子がうかがえる記事がありましたので皆様にご披露します。なおその後 音、高田両氏に関する詳細な記事がありましたのでそれも転載します。
往年の方々は趣味にも大変な努力を払っておられたのですね、私などとても「足元にも及ばない・・」どころではありません。
 前半適宜端折った引用など、勝手な構成はお許し下さい。
                                        段野治雄
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以下 会誌「凌霜」昭和41年1月25日(196号)より引用。

前身は「ヒマラヤうたひ会」。昭和24年頃から始めた。凌霜第6期の伊達、日塔、竹内、音、久々江が集まり、毎月1回謡曲を楽しむ。ヒマラヤうたひ会と称する。
 会員が10数名に増えたので昭和29年3月から「東京凌霜うたひ会」と改めた。
               以上 音申吉氏手記より高田氏が同会誌へ引用

 「昭和29年3月20日に日毛白金寮で催された謡会への出席者の記録を見ると、三田村明、伊達泰次郎、沢木正太郎(一橋出身で元日毛の同僚)、松本幹一郎、久住昌男、音申吉、西川清及び高田透夫妻~~。
 会員の殆どは観世流であること、現在に至るも同様であるが、それでも宝生流の江波戸鉄太郎氏、吉谷吉蔵氏、玉伊辰良氏、山根勇氏、宮保卯吉氏等、また喜多流の松本幹一郎氏、久住昌男氏、藤田寿雄氏等の参加も時々あった。
会場は最初の日毛白金寮から、一時 特殊ポンプ(日機装の前身)の階上、渋谷区区民会館を経て最近はもっぱら出光西大久保寮を拝借しており、また年に2回くらい、箱根、熱海、湯河原等の旅館や会社寮に1泊掛けで遠出を楽しみ~~」
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以下 会誌「凌霜」昭和44年11月1日(215号)より引用(全文)

「東京凌霜うたい会」
 当会は臼井経倫氏(大正4卒)を会長とし現在会員47名、毎月第三土曜午後1時より新宿区西大久保2丁目354の出光寮にて例会を開いて居ります。会員の殆どが観世(梅若派を含む)ですが宝生流の人も3名います。本年8月のお盆の日に物故会員特集会報を発行しましたので、その中から前幹事西村二郎氏による「音、高田両氏を追想して」を抜いて本稿としました。

音、高田両氏を追想して  西村二郎
 今日掃苔の日故音申吉、高田透両氏を追想して一文を草する。
 故両氏は我々在京の同窓の中の謡曲愛好者で組織する東京凌霜謡い会の初代及び二代目の幹事であり、高田氏の急逝後2年間私が三代目幹事を勤め昨年末四代目を安村君に譲った。音、高田両氏共謡曲を通じてのお付合であり、音氏の日本毛織、東洋パルプ(在満)における、又高田氏の三井物産、中村機械貿易における御活動等については承知する処も少なく本稿ではふれず、専ら両氏を趣味の面より追想することとする。
 音申吉氏(明治45年卒のヒマラヤ会員)がヒマラヤ会20周年記念(昭和6年)誌上で「謡曲は観世の流を汲む。志のある人には教えて上げても良い。宗家にもその内教えてやろうと思う。能ある鷹は爪を匿すというからこれ以上自慢はせぬ」と言われて既に満々たる自信を示しておられる。そのヒマラヤ会の50年記念誌(卒業50周年昭36)には「今尚謡を教わり続けて発声に余念なく東京凌霜謡い会を主宰して毎朝井戸水で水垢離をとっている」と記されその御精進の生涯に渉りしことを知る。
 又令息鎮夫氏も「残声」に寄せられた「故人を憶う」の中で「父を語るときはどうしても謡にふれなければならない。尺八から謡曲に変ったのはどういう動機で、又何時頃かは知らないが、兎に角父の謡曲は趣味以上のものである。中略、父に謡のあったことはよいことであった」と語っておられる。
 大正末期昭和の初年頃は現在の清水要之助師の先代福太郎師に、或いは故橋岡久太郎師に師事せられ、昭和56年頃には既に素人の域を脱しておられたように思う。剣の達人がその修行に心魂を打込むような稽古振りでその姿や声には古武士的な風格が常に漂っていた。
 晩年には枯淡の味が加わり、些か誇大ではあるが神韻縹渺少くとも超人的であった。今日あのような味を出す謡い手は少なく、又は無いと言っても良いであろう。「残声」付録の独吟景清を再生して聴く度にその感を深くする。
 故高田透氏は音氏に遅れること4年、大正5年の卒業であるが、その謡歴はずっと古く11歳(明治38年)の頃祖父に当られる方より手ほどきを受けられ高砂、竹生島、熊野等十番を無本で覚えられたそうである(東京凌霜謡い会の昭和40年会員キャリヤー調べより)。神戸高商入学前、尾道で約3年観世や喜多を習われ又卒業後(物産大阪支店在勤中)は大西派の観世流を稽古せられたが、何れも惰性的なものであったそうで、本気で稽古に打込まれたのは三井物産青島支店在勤時(大正12年~昭和3年)の足掛5年、梅若派を修められ、この時期に充分なる基礎を会得せられた。
 師は梅若宗家より派遣の黒川正六氏であった由、昭和3年東京に転ぜられたときは既に一家をなされて没年に至るまで特定の師匠には付かれず専ら観世、梅若の会を暇に任せて見学して廻られ、益々その薀蓄を深められた。能は13歳の頃尾道で船弁慶の子方に出られたのが始めての終わりで右手に少し痙攣の気あり、立方には不向きでやられなかったが、その代り観能、能楽書の勉強には非常に熱心で立派に批評家としても通用した。
前記のキャリヤー調べに「能は謡曲、仕舞、囃子を底辺とするピラミッドのようなもので、そのリズム組織は邦楽にも他に例がなく世界にも誇り得るものと思う。最近拍子の研究により謡のこつを会得できた気がする。その結果地拍子五指法を案出した」と言っておられる。高田氏創案の「地拍子五指法」はアウトラインの御説明を承っていただけで遂に理解出来ずじまいに終ったのが遺憾の限りであるが、氏の門下の岡部幸一氏の言を藉れば(経謡会会報第12号所載)「昭和36年春高田透さんに付き地拍子の研究をはじめたことは私の謡歴において画期的な転機となった。やみ雲に素謡をうたっていた過去に比べて謡曲の世界の深遠さに眼を見張り、その仕組の非凡さに感嘆した。我々の偉大な祖先の遺した斯くも素晴らしい音楽の世界に開眼する手引きをして下さった高田氏に絶大の謝意を表する」と述べておられることからしても氏の研鑽の尋常ならざりしことをうかがい知る。その科学的な研究、地道な努力の集積に改めて敬意を表する。
 今や音氏逝って7年、高田氏逝って3年、追憶の念を上記して稿を終る。
                                                        以上