(原文はB5判 縦書き3段組み)

 

 

         

                        音申吉氏と謡曲()

 

  

                   東京凌霜うたひ会

 

                         高 田  透

 

 

               〇東京凌霜うたひ会の創始者

  音氏は五十余日の闘病生活の後とうとう亡くなってしまった。ほんとうに惜しい人を失

 った。色々話柄の多い人であったが私がこれから述べようとするのは特に謡曲を中心とし

 ての氏印象や謡曲観についてである。思えば氏の一生の三分の二は謡と道連れであった。

 いや、一生を謡曲で貫いたといっても過言ではないであろう。

 

 私が初めて音氏に接したのは昭和二十九年ごろ日毛の白金寮の謡会の席上で音氏ほか十

名余りの方々に紹介された時であった。その頃の氏は既に謡曲について一家の見識を有し

ていたようだった。氏がいつ頃から謡曲を始めたかはよく知らないが、先達ってお通夜の

晩に次男桂二郎氏に伺って見たら「自分が生まれる前から」とのことであった。おそらく

結婚前からのことで、筒台を出て会社生活に入り日毛の加古川工場在職時代からのことら

しい。そこでみっちり稽古を積み、後日東京支店に移ってから東京の師匠清水福太郎氏(

之助氏の先代)や橋岡久太郎氏に師事して晩年の箔を身につけたものと思われる。一説によ

るとそれより前、氏が金沢出身者なので学生時代から宝生流をよくし、のち観世流に転じ

たとの話もあり、その辺のことはどうもはっきりしない。いづれにせよ晩年の音氏は素人

謡曲家としては特異の存在で、交友も多く、広く足跡を残した。まア一と口にいえば謡に

つけては一家言を持ち、所信はどこ迄も主張して退かない教祖的存在であった。

    わが凌霜うたひ会の始まりは氏の手記によると昭和二十九年と考えられるが、その以前に

ヒマラヤうたひ会があってそれが発展して今日の会となった。故人が残して呉れたノートに

左のような記録がある。

     「凌霜第六期の伊達、日塔、竹内、久々江、音が観世流の謡を嗜んで居るので二年程前から毎月

  一回謡会を楽しんだ。ヒマラヤうたひ会と称した。追々凌霜同人が参加して今では十数人を数え

  るようになったので此月から凌霜うたひ会と改めた。

       京浜が開催地であるため自然観世流を習って居る者が多いが、宝生流の江波戸君が熱心に参会

  されるし、金春流の井上貴与記君が来会された事もある。

       今は引続き日本毛織の白金寮で土曜の半日を楽しみ、会後簡単に盃を交わして歓談する事にし

            て居る。

                会員の夫人方で応援参加される方もあり大変和やかな催となった。

                                  昭和二十九年三月二十日  音生」

 

    これで見ると発祥は昭和二十七年頃らしい。

     それは兎も角「土曜の半日を楽しみ、会後簡単に盃を交わして歓談・・・・」それから「会員

に夫人方で応援参加される方もあり大変和やかな催・・・・」云々は今日でも憲法の如く遵守さ

れ、月例会の会場はさながら和気満堂の風景である。

     第六期生の名は前に出たので第五期以前の会員をあげて見ると故人となられた伊藤述史氏

を始めとして古井保太郎、矢野夫人、佐々木義彦夫妻、鈴木寛一、小出梅吉、江波戸鉄太郎、

近藤得三、山中清三郎の諸氏がある。外に第七期以下第二十四期位迄の同好者が轡をならべ

何れも錚々たる人々である。

     私が音氏から幹事役を引継いだのは同氏父子が特殊ポンプ(日本機械計装の前身) の事業を

始めてから忙しくなった昭和三十三年春の頃であった。現在では名簿には七十七名の会員が

登録されて居り、毎月の例会出席者は十二名乃至二十名というところ、その内には謡に興味

失ったのか全然顔を出して呉れない会員も若干ある。この七月で第八十五回を重ねたがヒ

ラヤ会時代の回数は判然とせず、私共はこれを神代の時代と呼んでいる。

     最初は主として日毛白金寮が会場にあてられた。その間松本氏の明治鉱業寮なども利用さ

せて貰った。その後代々木八幡の渋谷区民会館をしばらく利用したが最近は専ら出光大久保

寮を貸して戴いており、あの広々とした四季の眺めとりどりの前庭に向って謡を謡えば雨に

つけ晴れにつけ私共を慰めてくれる、その気分は筆紙に述べがたく一同感佩している。この

紙上を藉りて出光氏に厚くお礼申述べる次第です。先輩諸士のお蔭で当会は健全な発展を続

けており、なお望むらくは学部以降の新会員の参加を歓迎するところである。会の沿革はこ

の位にして以下、音申吉氏の謡の性格、謡曲観等について私の感想を記して見たい。

  

                〇音氏の謠曲観

      大体、晩年の音氏の謡は一と口に言えば枯淡と称してよい境地にあったと思う。二番目物で

言えば「屋島」「実盛」三番目物では「雲林院」「遊行柳」「大原御幸」四番目物では「景清」

「蟻通」「天鼓」等を好んで謡ったのを見てもその傾向が覗われるであろう。同じかづら物で

も紅(いろ)無しの老女物、そうでなければ四番目の老骨物を撰む傾向があった。

      また記憶力の確かなことは驚くべきで、故人の伊藤述史氏が謡曲にかけても博覧強記であっ

たが音氏もそれに譲らぬものがあった。たいていの曲は無本でやってのけたものだ。更にまた

非常にすぐれた批評眼の持主でもあった。誰れ彼れとなく辛辣な批評を向けたもので、ことに

懇親会などで酒がまわると思切った批評をあびせ、それがまた相手の虚を突くようなことをい

う。その都度相手は啓発され、または反撥した。また前にも書いたように教祖的の面があって

謡曲に関する所説を発表して、あくまで自説を枉げようとしなかった。或る時私は音氏に対し

て「あなたの謡曲観を書き残して欲しい。そうでなければ私があなたの口述をノートしてもよ

い」と申入れたことがあったが遂にそのことなしに終った。したがって故人の理論主張という

ものは体系的な形態を持つに至らなかったが、その一部をまとめて見ると左の様なものではな

かろうか(謡のディテールに渡って甚だ恐縮ながら・・・・私見も付記しておく。)

 

(1)言葉の詰め開きを十分にせよ。

 語勢を強めるところでは言葉の詰め開きを十分にせねばならぬことを強調した。例えば

    「藤戸」のキリの

     氷の如き刀を抜いて、胸のあたりを、刺し通し、刺し通さるれば、・魂も消え消えと、

     なるところを

  の傍線の所は特に語間を詰めてまのびしないように謡えとか、また「善知鳥」の

    あかがねのンツメを、磨ぎたてては、まなこを摑んで

     の爪はツメと二字に読むのではなく一字の様に詰めて謡わぬと爪の尖った感じが出ないなど

  仲々よいところを見ていた。尤も言葉の詰め開きのことは昔から教え伝えがあって、ツで始

  まる爪、月、塚、摑む、つるぎ等、またキで始まる霧、きさらぎ、絹、奇態等のキは語勢を

  詰め声を消して謡う習わしだが音氏のいう「刺し」「爪」は格別のものだった。「摂待」の

       門脇殿の次男能登守教経と名乗って、小船に取り乗り・磯間近く漕ぎ寄せ

     の開きはとの中間にあって「磯・間近く漕ぎ寄せ」の方が良いということであったが、

    これは磯間という名詞に解すれば前者でも差支えないと思う。謡本にはそうなって居るのだ

          が氏は別の見方をしていた。

  

(2) 仮名の発音を正確にせよ。

   「あらあらおもしろの」とか「られんも口惜し」とかのア列の発音が口籠るのは好くな

  い。「ありがたや」が極端になると「おりごたや」に聞こえる。それでは日常語ではない。

  口を開いてはっきり「ア」と発音すべしという。

   これも一応尤も且つ傾聴すべき主張であるが、謡曲では喜怒葵哀楽を明らかさまに出さな

  いことを貴ぶところからア列をオ列の発声に近づけて謡う習わしになっている。余りア列や

  ガ列を強調すると賑やかになってジャズの発声かと思われるようになるのを嫌うからだ。

   次に音氏は「ア」を「ヤ」に発音する主張があった。例えば「あれあれ見よや」が「やれ

  やれ見よや」になるのだ。その主張によると「ア」はいきなり「ア」と発音すべきではなく、

  その前に必ず「イ」という誘引音(芽音のこと)が附属して「イア」即ち「ヤ」となる。例えば

  「ナ」とか「マ」とかはいきなりが発声されるのではなく、必ず鼻音で「ン」が軽く

  前に附く、そして「ン名も高き」とか「ン先づまづ」とかになるのと同じ理窟だというので

  ある。

   この芽音の理論は謡では大切なことであるが、幾らそうであっても「ア」が「ヤ」に音韻

  転するのはその直前にイ列の仮名が有る場合に限られる。「ありけ」が「ありけ」に

  なり「気合」が「きい」に転化することはあっても頭からになるとはどうしても考

  えられない。百人一首にはアで始まる札が十六枚だけあるが、あれが皆で読まれたらどん

  なことになるだろうか。音氏はこの理論を何所から輸入して来たか不審に思う。

                                      (以下次号)

 

 

(原文はB5判 縦書き3段組み)

 

 

 

           音申吉氏と謡曲()

        

 

                   東京凌霜うたひ会 

                

 

     高 田  透

 

 (3) 謠の字くばりに注意せよ

   音氏は「鉢木」の次第の

      ゆくゑ定めぬ道なれば 

  の下りを橋岡氏について半年掛りで稽古したということだった。謡では口伝を貴ぶ習わしが

  あって説明出来ないところはみな口伝によった。「鉢木」の次第の七五、七五、八四の短か

  い文句を半年かかったとは笑えぬ話で、この一行の謡が腹にはいれば他の文句は自ら解るよ

  うになるということであろう。私がひそかに考えるのに、これは素謡でもそうではないとは

  いえないが、恐らく鼓ではやす場合に大切な謡い方だろうと思う。素謡でやる場合には、

      ゆくゑ さだめぬ みちなれば

  でも一応通用するわけであるが囃子謡では

      ゆ くゑさ だめぬ みちな れば

  でないと鼓の気合に合わない筈で、氏はこの気合を口伝によって稽古したのではなかろうか。

  これは一見「弁慶がナー」式の句法に見えるが、これでないといけないと思う。

 

(4) 鼓は謡に呼応すべきだという主張

   氏は鼓の一調を好んで謡ったが、いつでも鼓の打ち方は日毛時代から水魚の交りをして来

  た、沢木正太郎氏(一橋出身)が打ち手であった。音氏の主張を一口にいうと鼓は謡につくべ

  きものであって鼓が謡を規制すべきではないということであった。これも一般の観念からい

  えば拍子には一定の約束があって、謡と鼓とが表裏一体となるためには双方が一定の寸法を

  守らねばならない。ところが音氏に言わすと拍子といってもそれは気合であるから、その気

  合を呑込んで鼓を打てば謡の方で多少の伸び縮みがあっても立派に合う筈だという主張だっ

  た。この辺の議論は非常に微妙なもので面白い説だと思って私は聞いた。が併し、これは何

  といっても謡の名人と鼓の達人の間でやりとりする奥儀の問題であって、素人一般には到底

  受け入れられないことであった。それで音氏の謡は難曲だということになって、彼の一調の

  相手になるのも前記の沢木氏をおいては外に余り居なかった様だ。謡曲の拍子は実に巧妙に

  仕組まれ且つ奥行の深いもので、更に気合の問題になると真剣勝負の時の呼吸に通じるもの

  があり、一朝一夕の談ではない。禅僧沢庵和尚は柳生但馬守に申入れた中に「心を無にして

  相手が打って来る刀に拍子を合わせて附け入れ」と訓している。

  

  (5) 拍子謠の功罪

   皆んなで一緒に素謡を謡うとき音氏が地頭をやると調子の乗り気味のところ、特に「クセ

  」キリ」に来ると地頭が素謡を拍子謡にして謡うので、前列に居る人はそれに随いて行

  けなくての調子が不一致になることが往々あった。皆が拍子の心得がない時は調子が乱

  れるのは当然だが、音氏はそれをおかまいなしにやってのけたのは後進を誘導する気持ちが

  あったのかも知れない。音氏に言わせると「あんなに謡わねば調子が乗らないからだ」とい

  った。全く「中のり」の切りなどは拍子謡にして「ま」や「持合い」を入れなくては謡えな

  いところが沢山あることは同感だ。

   元来昔はすべて拍子謡だった。拍子抜きの素謡が謡われたのは徳川末期以降のことだと聞

  いてるが、現今は謡といえばみな素謡と思われるようにあった。夏目漱石は宝生新につい

  て相当謡をやった人で、彼の「吾輩は猫である」「坊ちゃん」「行人」等に謡のことが出て

  来るが、それほどの大家でも素謡の一天張りだった。或る日高浜虚子が大鼓あしらうからと

  無理矢理に勧められるので「羽衣」のクセをおずおず謡いだしたところ、虚子が腹一杯の掛

  け声で鼓をカンと打つとその途端に漱石の声がぶるぶると震えだし、遂に途中で投出したと

  森田草平が思出話を書いた。漱石といえば彼は便所に入る度に「これは平の宗盛にて候」と

  大声でやるのが癖だったそうだが、音氏の「行衛定めぬ道なれば」と好一対で大変なつかし

  い。音氏は電車の中でもおかまいなく謡っていた。

 

                    〇音氏の芸風

   前にも述べたように彼の謡は枯淡で相当高度なもので、且つ拍子の理解者でもあった。む

  かしをよくしたというからその辺の事情が懐しく覗われる。尤も氏は能は殆どやらなか

  った。く彼は素人能を金持ちのマスタベーション位に考えていたかも知れない。昔「仲

  光」の能にて多田満仲をつとめたことがあったとか橋岡久馬氏から聞かされたが、恐らく

  それが最初で最ではなかっただろうか。

   一体芸に生きるとはどういうことであろうか。それには二た通りの現われ方があると思う。

  一つは芸術に没入し芸の純粋感情に溶け込んで、謡でいうならばその古雅な情操にひたるこ

  とで、音氏の如きはこの部類に属する人で、素人ながら謡を楽しみ芸に徹した人である。十

  回の西川清君がテープレコーダーを携えて毎週音氏の病床を見舞いレコードを聞かせると、

  病人は非常に喜んで聞きながら「あそこは好くない・・・・そこは拙い」と批評を加えたそうで、

  これなど近頃の美談といわねばならぬ。

   いま一つの現われ方は、かの織田信長が今川義元の桶狭間を急襲する前夜、陣中で小鼓を

  打たせ「敦盛」の一曲を三度舞ったとか、或は木村重成が夏の陣に臨む前の日髪を洗い香を

  焚き込んで「江口」の一節を心静かに謡ったと言伝えるが如きで、つまりその芸を身につけ

  それを修養の伴侶とし、死生の巷にもそれを忘れない生き方であろう。

   名人の至芸というものは全く底の知れないものであるが、結局「初心」を老後まで失わず

  「っても悟っても未だ悟り尽くせない境地である」と世阿弥は教えた。世阿弥は芸の向上

  段階を九位に分ったが喜多六平太翁や野口兼資翁、観世華雪師などがどの位まで向上して居

  たか、九位の中の上三位は幽玄の極地というが、大抵の人はそこまでは上れない。ただ鍛錬

  あるのみである。

   能は「物まね」というがこれも鍛錬以外の何物でもない。音氏は師匠を大切にし、師匠の

  芸を愛好すること人一倍であったので、清水福太郎師につけば清水氏の芸風を身につること

  に専念し、橋岡久太郎師につけば橋岡氏の謡ぶりをそっくり我がものとしてしまったので橋

  岡氏も音氏を以て自分の芸風を継ぐ第一人者として頼りにして居られたという話である。

   音氏永眠の翌晩わが凌霜うたい会からも数人がお通夜に行ったが、あの夜は御遺族と会社

  の方以外は申合せた様に謡仲間、すなわち清水一門、橋岡一門、そしてわが会友の面々が同

  席した。故人の居室にしつらえた霊壇に「得忍院釈浄申」と墨痕鮮やかに書かれた戒名の前

  でそれぞれのグループが「藤戸」「砧」「賀茂」を唱和し彼の霊を弔った。

   室の一隅にはテープレコーダーがあって故人が生前吹込んだ「大原御幸」や「盛久」が生

  きている声そのままに聞えて来る。私は以前正五会の慰霊祭で

      亡き友ら生きてるように弔らはれ

   という川柳を駄句ったことがあるが、当夜の音氏ばかりは本当に死んだとは思えなかった。

  それでも「藤戸」を皆んなで謡ったとき「・・・・折節引く汐に、引かれて行く波の、浮きぬ沈

  みぬ埋木の、岩の狭間に、流れかかって・・・・」の辺に來ると隣で謡っている荊妻が鼻をつま

  らせてほろほろ泣き出したのには僕も思わず喉をつまらせてしまった。

                                      (七・二三)