(原文はB5判 縦書き3段組

          能 謡 を 楽 し む (その一)

 

                        大5 高 田  透

 

 

    (前おき) 子供の頃、それも十一・二才の頃であったが、祖父が晩酌後の慰さみに、私に

小謡教えてくれたものだ。文句は今でも忘れもせぬ、あの時覚えた小謡は “ 緑樹影沈んで ”

の「竹生島」を始めとして「高砂」「鞍馬天狗」「熊野」「玉井」など十曲ばかりだった。

雀百までの諺のとおり、その後も謡と聞けば懐かしく、成人してからも正式に師匠について

見たり、離れて見たりする内にいつの間にやら古稀を迎え、今では祖父の齢を凌ぐに到った。

老妻も永らく謡や仕舞や鼓の稽古をして来たので、家庭内の日常の話題といえば能や謡の噂

で明け暮れする始末、暇さえあれば観能に時を過ごし、同好者も大分できて来た。自分の腕

前は十人並み以下だが、耳や目はどうやら十人並みにはなったかも知れない。

        殊に仕合わせなことには、東京で「凌霜うたい会」の世話役を十年ばかり勤めさして戴い

 たので、その方の動静には比較的親しくなった。今年の春、ふと思いたって、この会の会員

 六・七十名(中には脱会同様の人もあるが)にお願いして「凌霜人謡曲歴調べ」を試みたとこ

 ろ、幸い五十四名の方から回答を得た。

        東京方面の「凌霜うたい会」と並んで関西でも先年「凌霜関西地区謡曲会」が結成され、今

 年の八月に第六回の大会が催され、その盛会振りは想像に余りあるものがある。因みに東京の

 凌霜うたい会は去る十月で第百十八回の月例会を迎えた。ところが余り大声では言えぬが、最

 近ちょっと低調で、やや老衰気味も見受けられる。これは世話役の不徳に因るところもあり、

 内心恥じている。しかし、謡会のあとの懇親会の楽しさはまた格別で、他の会では見られない

 雰囲気がある。これは同じ古典芸能に共通の趣味を持つ者同志の特権といえよう。また同期生

 の集りとも違った懇親振りである。

        さて「凌霜人謡曲歴調べ」も東京方面だけでは片手落ちであることに気が付いたので、関西

 側の幹事役、井口宗敏氏にお願いして関西各位の謡曲キャリアを取纏めて頂いた結果、三十五

 氏の回答が集まった。これらは何れも貴重な資料であるので、わたくしするに忍びず、凌霜誌

 上を拝借して発表させて頂くことにし、併せて筆者の能謠に関する感想などを綴って見たいと

 思い立った次第である。謡曲は六百年の昔から我が国の庶民、武人、将軍に愛好され、明治以

 降は国民大衆の趣味と精神生活の糧となって来た。かかる謡曲がわれわれ凌霜人の趣味の支え

 となって何の不思議があろう。

     さて、これから凌霜人の謡歴調べをご披露するについて、まず、物故者で謡曲愛好家であっ

 た伊藤述史氏と音申吉氏のことを述べさせていただきたいと思う。

 

 (凌霜人謠歴調べ)

  (1)  伊藤述史氏(明四〇卒―昭三五没)

        伊藤氏は人も知る如く外交界ではつとに勇名を馳せ、凌霜人中でも出色の人であったが、その

    方面のことは省略する。氏は英、仏、伊等数ヶ国語に堪能であり、また仏教にも造詣が深かった。

    これらのことと謡曲とは何のかかわりもなさそうであるが、私には何となく因果関係があったよ

    うに思われてならない。

  それは昭和三十年春のある日突然、伊藤氏から電話が掛り、その日以来、しばしば凌霜うたひ

    会に出席された。氏は人一倍記憶力が強固であった。「景清」「鉢木」などは無本でシテを謡わ

    れた。氏の謡の特長は余り節の抑揚に拘泥せず、すらすらとして立板に水を流すが如く、恰か

 経を読むようでもあった。この辺が氏の語学や仏教に何となく縁があるように思えた。笛も「

 之舞」をよく奏した。また興が乗ると立って仕舞をまわれた。

   昭和三十五年の二月頃であったろうか、伊藤氏が食道癌で入院と聞き、音申吉氏と二人で下谷

    の病院を訪れ、メロンを見舞に差出すと氏は非常に喜ばれ、「患部はすっかり切り取ったから、

    もう大丈夫だ」といって居られたが、その後容態は回復に向う様子もなく、四月三日の夜、花に

    叛いて七十四才で他界された。本当に惜しい先輩を失ってしまった。       (つづく)