(原文はB5判 縦書き3段組み)

 

高田透君逝く

              5 田淵純一

 「昨夜九時四十分、高田透君が急逝した」という電話を三田君から聴いたのは、年の瀬も

あと一日と押詰った旧臘三十日昼前のことであった。晴天霹靂の悲報に自分の耳を疑うばか

りであった。

 生者必滅も無常迅速も判っていても、何としても天が恨めしくなる。三田君が二十七日に

訪れた時は平素と変わりなく、新春の再会を期して別れたばかりであるとのこと、二十八日

出勤途上遽かに腹痛を覚えて引返し、医師の診断を受けた上、附近の病院で開腹手術を施し

たのは翌二十九日午後であったが、急性穿孔性腹膜炎で凡ゆる手当もその甲斐なかったそう

である。天寿と云えばそれ迄だが実に残念な事である。

 君は明治二十七年八月愛媛県で生まれたが、明治四十五年尾道商業から神戸高商に入り、

筆者と共に広島友団に属し、本二の時だったか敏馬のレガッタの友団レースに優勝の栄冠を

得た時は彼が整調、昨春物故した田中達三君が舵手、僕が三番であった。大正五年卒業と同

時に我々は二十数名の旧友と共に三井物産に入社したが、彼は機械部、僕は綿花部(後東洋

綿花)と縁遠い部署についたため任地もかけ放れがちであったが、終戦後は時々会う毎に懐

旧談に耽ったものである。大正五年十二月には広島歩兵第十一聯隊の同中隊に入り、志願兵

生活も一緒であったのだから旧友中でも特に因縁が深かったと言えよう。

 生来温厚寡黙、責任感強く、友情に篤く、後年三井造船、佐世保船舶等の要職に歴任した

が行く所内外の信望を鍾め、晩年は中村機械商事に聘せられ東京支社顧問として貢献して居

た。幼にして謡曲を学び、東京では凌霜謡い会(臼井経倫会長)の幹事を勤め、尚子夫人

亦仕舞や鼓の名手として人も羨む琴瑟相和する仲であった。彼が凌霜誌上連載しつつあった

「能謠を楽しむ」はその懇切なる友情の一つの現れで、続稿は多分西村二郎君(大7)に受

継がれる筈である。趣味豊かな高田君は短歌や俳句にも造詣深く、文才に秀で、ユーモア

解し、正五会の機関誌たる正五会報ではスミス先生回顧録の邦訳と取組む傍ら、大会の紀行、

句歌壇の鑑賞、会報十年の総目録、「孫の作品」等々に実に三面六臂の大活躍で、彼の急逝

は彼を知る限りの誰彼から深く惜しまれること必定だが、会報の編集を引受けて居る僕とし

ては差当り右手を截りとられた様な気持である。高田君はまた神伝流の水泳の達人でもあり、

夏休み中は師範として各方面に聘せられた程である。この外柔道も一級であったとか。斯様

なスポーツマンでもあったのみならず、健康には常に周密な注意を払い、独特の床上体操を

毎日実践した位いだから、まだまだ長寿を期待されて居たにに全く意外であった。

 彼には俱之、悠という二人の令息があるが夫々幸福な家庭を営み、長男俱之君は級友中川

君の主宰する東洋キャリアに在勤して大いに嘱望され何等後顧の憂はない。故人のご冥福と

ご遺族の幸福を只管祈るのみ。                        合掌