能楽情報 目次

  • 令和6年(2024年)新春神事能案内(リンク)← クリック
  • 「大阪の能舞台と能楽界の変遷」について
  • 「同音」から「地謡」へ  ~その進化~
  • 能楽チャリティ公演(ロームシアター京都)鑑賞記
  • ジェーン台風襲来時、大槻能楽堂では屋根が飛んでも演能続く
  • 平成19年 第47回姫路城薪能(「吉野天人」「小鍛治」、狂言「察化」)の様子
  • 平成29年の干支 詞章に「鶏」が含まれる13曲について
  • 浦田親良、河村紀仁へのインタビュー記事
  • 宇治先生から学んだこと(風韻より抜粋)
  • 宇治先生記事「神戸観世」
  • 昭和47年4月新築なった「観世能楽堂」杮落としの 日賀寿能ポスター紹介

                                  2021年9月8日

        「大阪の能舞台と能楽界の変遷」  

                            大阪大学名誉教授宮本又次

 

 宇治正夫先生や藤井茂先生から引き継いだ謡曲資料の中に、上記の興味ある論文を見つけ

ました。宮本先生の奥様が宇治風韻会社中のおひとりで、とても品のある謡や舞を披露され

ていて、又次先生も会の席でよくお見掛けしておりました。またご子息の又郎様は神戸大学

経済学部卒、大阪大学名誉教授です。

 この論文は大槻能楽堂再建の直前に書かれたものですが、出てくる人物や能舞台には皆様

色々と思い出の多いことと存じます。ぜひお目通し下さい。

※「経済人」昭和56年5月号6月号より PDFファイル御参照下さい。

                            (昭和40卒 段野)

 

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大阪の能舞台と能楽界の変遷宮本又次経済人May&June1981SD.pdf
PDFファイル 3.2 MB

    木母寺の梅若忌 について

隅田川東岸の白鬚橋から徒歩5分程上流に「木母寺」があります。

謡曲「隅田川」の梅若丸がなくなった場所に建立されたお寺です。

毎年4月15日に梅若丸を偲んで、「梅若忌」が執り行われています。

平成31年に参加して後、コロナの影響で、数年参加していませんが

先日、散り行く桜を惜しみながら、隅田川べりを散策した序でに

木母寺に立寄りました。この数年「梅若忌」が執り行われたか否かは

定かではありませんが、今年のパンフレットが置いてありました。

下記にそのパンフレットを添付します。(参加費はH31年は¥1,000でしたが、今回は\3,000です。)

木母寺の境内や梅若忌(平成31年)の様子は、下記の「年間行事ー木母寺」公式ホームページをご覧ください。

    令和5年3月30日                       (S44年卒) 向濱 幸雄

 

 

「木母寺 梅若塚」検索で詳細が窺えます。

年間行事 - 木母寺 公式ホームページ (天台宗 梅柳山 隅田川厄除大師) (mokuboji.org)

 

 

「隅田川」は、鑑能経験が殆ど無い人でも、文学好きな人などに関心が深いようです。

数年前、訪れたことがあります(武内 付記)


「同音」から「地謡」へ  ~その進化~

 世阿弥時代の能(当時は猿楽、世阿弥は申楽)は現代からは想像もできない

ものだったのではないかと思う。
 女性の役は素足で着物を引きずり、手首が見えないように桁を長めにゾロつ

と着て、持ち物もカチっと持たずやわらかく握ったらしい。山伏は「足駄

(あしだ)」と称する下駄のようなものを履き、鬼は「毛狩羽(けかりは)」

という獣の毛で覆われた履き物を用いた。もちろん今皆様が思い浮かべる檜敷

きの能舞台はまだなく、演技空間は寺社の境内や、また勧進などの大きな催し

のときは仮設の舞台を作って演じていた。
 その頃の舞台図や絵を見ると、地謡が座る「地謡座」や囃子方が座る「後座」

はなく橋がかりが舞台に直結している。
本舞台の中に囃子方が座り、今よりも狭い空間で演じられていた。
 さて、では地謡はどこに居たか。
 地謡座ができたのは後世で、当初の能に地謡専門の演者は登場していなかった。

主な立ち役、シテ、ワキ、ワキツレが同吟して地謡のパートを担った。一般的な能

はワキ、ワキツレが登場し、そしてシテが現れる。掛け合いになり、そして初めて

の地謡になるのがパターンで、舞台にいる立ち役が地謡を謡った。そのときにシテ

立って演技をしているので、座っているワキが主導権を握り、数人のワキツレが

皆で同吟して謡ったようだ。シテも謡うのだがやはり演技の密度を増していくにつ

れ、揃えて謡うことへの無理もあったのではないかと思う。以前にこの演出の復活

が試みられ参加したが、シテの演者はかなり謡い難そうにしておられ、また演技の

気も散漫になる由、話しておられた。
 その後、謡本の表記について、シテも同吟して謡う場合を「同音」⇒「同」、シ

テが謡わない場合を「地謡」⇒「地」とし、観世流でも大正ごろまでは区別されて

いたようだ。ちなみに我々役者のなかで初めての地謡のところを「初同」という。

一種の業界用語のようなものだが「初めての同音」からのことで、ここにもその名

残がある。
 同吟するということはボリュームが大きくなり、心情描写や情景をナレーション

的に伝えることになる。また演技者が謡わずそれに合わせて演技をすれば、直接的

な説明でなく、広がりのある深い表現になると思う。
 例えば 『三輪』 の初めての地謡「柴の編戸を推し開きかくしも尋ね切樒(き

りしきみ)罪を濟けて賜び給へ」という「初同」。シテの行動を表すもので、当初

の演出ならば同吟するべきところ。しかしシテも謡い同吟しながら、戸を開ける型

をして進み、座って手に持った樒を供え置き合掌すると、いかにも説明的になって

しまい、それ以上のシーンにはならない。客席の目が声を発するシテのみに集中す

るから仕方のないことだが、現代のように地謡がここを謡うと、観客は舞台全体を

見ることになる。シテが戸を開ける型をすると、ワキの玄賓僧都の視線が対角線上

に居るシテヘ通り、シテが少し進んで座ると庵に入った体になり舞台全体が玄賓の
庵内に見える。合掌をすると他のいらないものは見えなくなり、ほの暗い庵室のな

かにシテとワキのみが映し出される。能独特の演出効果であり、魅力である。
 江戸の初期から中期に地謡という専門職が出来たことは、演技がより緻密になっ

た証拠であろう。このころには檜の能舞台が出来、シテは白足袋を履き、能装束も

現代に残る渡来の唐織なども使われるようになっている。たぶん演能の所要時間も

このころからだんだんと長くなっていったのだと思う。また謡そのものの様式、ツ

ヨ吟、ヨワ吟がはっきり区別されだしたのは江戸末期まで下る。
 昔はこう謡っていた、こう謡うのだと習い勉強したことをそのままの形で残すの

ではなく、十分に踏まえた上で、その場で感じ、順応し、新鮮でひたむきに舞い謡

うことが次への伝承につながるのだと思う。
                       (味方玄)

京都観世会舘会報誌 平成30年8月 より          武内安雄 記


  平成30年(2017年)干支「犬」「戌」「狗」が詞章に出現する演目について

以下、「犬」7曲、「戌」1曲、「狗」9曲の計17曲が見出されました。

一部の曲の「いぬ」の意味についてコメントです。見当違い、解釈間違いなどご指摘頂ければ幸いです。

【犬】
「善知鳥」鷹に責められて。「朝長」死すべく候。

「三山」ざくら花に伏して吠え叫び悩み乱るゝ花心。そねみの病となりし。因果の焔の緋ざくら子。

大和三山の三角関係。ここでは香具山♂が畝傍山♀(桜子)に思いを寄せ、耳無山♀(桂子)が哀しみ・恨みを

桜の花に例えます。犬」はまがいモノ意。イヌタデ、犬胡椒(ポルトガル)など挙げられます。緋桜(咲かない桜)
「通小町」さらば・煩悩{ぼんのう}の。となつて。打たるゝと。離れじ。

煩悩も犬も払っても払いきれない、意。
「殺生石」野干はに似たればにて稽古。あるべしとて百日をぞ射たりけるこれ追物の始とかや。

犬で野干(狐・狡猾な獣)対策訓練をし、犬追物の言葉が出たと言われます。
「鼓の瀧」三上犬上鏡山。/「島廻」三上犬上鏡山。
【戌】
「絵島」卯月十二日の刻より同じく二十三日辰の刻に至るまで。
【狗】天狗の狗
「花月」「鞍馬天狗」「松山天狗」「善界」「車僧」「大会」「葛城天狗」「大江山」は天狗の狗として詞章に
「現在鵺」神功皇后新羅を徇へ給ひし其昔。御弓の筈にて巌窟に異国の夷は日の本のなりと書きし文字の姿。

犬=狗の様ですが、ここでは信頼できない“”として“狗”としたのかも知れません。

                                (1971年卒 武内安雄、T女史解説)


能楽チャリティ公演(ロームシアター京都)第1部です。

 

東北、熊本の被災地の復興を支援するため、京都在籍の能楽師有志による能楽チャリティ公演が昨年に引き続き本日(8月24日)開催されました。

 

【第1部】
☆半能「嵐山 白頭」廣田幸稔、宇髙竜成、今井克紀
☆能「羽衣 和合之舞」杉浦豊彦
☆狂言「口真似」茂山忠三郎
☆能「船弁慶 重キ前後之替」片山九郎衛門、味方慧

☆祝言 淡路?

 

10:30~12:30で総て演じられました。

観衆はおよそ800人の満員です。

演目のあらすじ説明が英語版と併せて実施されましたので、各能も30分程度でした。

 

羽衣は“和合之舞”で二つの舞(序之舞と破之舞)を連続して一つにされます。

船弁慶は“重キ前後之替”と記され、静御前の登場は省略されてました。知盛の亡霊に義経と辨慶の祈りの数珠で立ち向かう場面のクライマックスは迫力がありました。

 

いつもと違い、非常に短い演出で、退屈にはなりませんが、物足りなさもあります。

能楽堂の鏡板が無く、背景は真っ黒でした。ワキ正面見所も無く通常の舞台と同じで、真正面からは美しい衣装の能楽師の動きが浮かび上がる効果を感じました。

今日の演出趣旨であれば、囃子方も、華々しく、リズム感を強調が相応しかったかも知れません。

 

終演後、平安神宮の大鳥居下をくぐり、琵琶湖疎水を渡るときの、気温は36℃越でした。

 

 

                            (46年卒 武内安雄 記


         ジェーン台風襲来時、大槻能楽堂では屋根が飛んでも演能続く


この資料は、西田さん(46年卒)が見出したものです。宇治先生関連記事探索中見出されたとのこと。

「上田照也の生涯」を福王茂十郎師が出版責任者として

“私本”標題「点と線をつなぐ」で能楽関係者に配布した様です。

上田照也師の奥様(英子さん)の日記的な文章と併せて編集されたと思われます。

記事内容は
 英子が初めて照也の能をみたのは、ジェーン台風が関西地方を直撃した二十五年九月三日、
大槻能楽堂で開かれた大槻清韻会の定期能であった。
 午前十時から開演、「東岸居士」山本勝一、「俊寛 落葉之伝」宇治正夫
「千手」照也、ツレ藤井輝明、「土蜘珠」大槻十三、頼光・山本博之、トモ・八木康夫、胡蝶・山本真義と進んだが、
やがて能楽堂の屋根が吹っ飛び、見所といわず、橋掛りといわず、滝のような雨漏りとなる。
しかし、満席の見所はカサをさすなどして立ち去る人はなく、舞台は最後まで演じ通された。
 その夜は交通機関が不通となり、神戸、京都の出演者は大阪梅田の稽古場であった。寺に一泊。
英子は宝塚でのレッスンを披露したりして、疲れ切った照也や保寿らを励ます。

しかし
・多くの観客が傘を差した状態で観能ができたのか
・シテは衣装、面を身に着けて、雨中演能できたのか
・囃子方は、雨に濡れても、音が出せたのか(特に大鼓)
疑問が湧きます。

 

折角得られた興味ある情報ですので、もう少し、実情を追ってみたいと思います・・・。(武内記)

 

「大槻十三」記念誌にざっと目を通しましたが、残念ながら台風騒ぎの記事は見つかりませんでした。(段野さん調査)

 


    第47回姫路城薪能

(「吉野天人」「小鍛治」、狂言「察化」)

        2017年5月12日18時~

 

姫路城を背景に演じられる薪能は、幻想的に加え、壮大な風情が味わえます。

凌霜謡会メンバーでは、前田、久下、高島、中崎、飯田(敬称略)、武内が鑑賞しました。

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・修祓

・能奉行舞台改め

「吉野天人」上田拓司、江崎正左衛門

「察化」茂山千作、茂山茂、茂山千五郎

・火入式

「小鍛治」杉浦豊彦、江崎欽次朗

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小鍛治の最後は降雨で、10分程度省略されましたが、サビ部は堪能することが出来ました。

杉浦師の魅力溢れる動き(詞章内容明確、優雅さ)に魅了されました。

 

主催者発表5000人の観客でした。今にも降りそうな天候でなければ昨年同様、1万人弱が見込めたでしょう。

 

 

演能の合間に白鷺(コサギ)が舞台裏から飛び立ち、ゆっくり回転しながら上昇し飛んで行き、演出を盛り上げてくれました。観客からタイミングの良さに響めきが起こりました。

                                                              (武内 記)


来年の干支は鶏です。300曲余の演目中詞章に「鶏」が含まれるのは、13曲でした。13曲中「鶏」について語られてるのは室町期作「鶏龍田」だけでした。リスト作成し高島さんの協力を得、この曲目にたどり着きました。

現在では上演されてないのだそうです.

【あらすじ河内の国の平岡某が龍田明神の鶏(四境祭で疫病を防ぐ祭祀の神の使い)を子供の土産に持ち帰る。女から「盗ったら、祟る」と注意を受けた通り、女房に鶏の霊が憑りつく。阿闍梨に依頼し霊を調伏する。

1500年頃の鶏イメージが推察されます。
中司由起子氏の「<鶏龍田>考」が下記URLからダウンロードできます。(武内記)
http://repo.lib.hosei.ac.jp/bitstream/10114/9423/1/nbs_79_nakatsuka.pdf


              京都観世会会館報誌平成27年10月号の抜粋です(武内)。

***次世代能楽師にきく***
 十一月七日の「伝承の会」で能のシテをつとめる若手二人(浦田親良、河村紀仁)へのインタビューです。
                                                            【聞き手】片山伸吾
昨年初めて「伝承の会」に出演していかがでしたか。他の催しと違うと感じたことは。
(浦田) 基本いつも自分の定期会か親の主催の会でしか立ったことがないので、緊張するというか何か重み

感じました。
(河村) 同じくプレッシャーを感じました。
「伝承の会」というコンセプトにおいて自分達の立ち位置についてどう思いますか。
(浦田)今までは上のお兄さん達を見てきただけだったのが、下の子供さん達が大勢いるのを見て、年上であることを

実感し、もっとしっかりせなあかんなと思いました。
(河村) 子方でもなく大人でもない中途半端な立ち位置だなと感じました。まだプロという意識がないので、これから

お兄さん世代を見習っていきたいと思います。
私達の期待値も含めてですが、もうこの道に進もうと覚悟は決められましたか。
(河村) 正直まだ決めきれてないです。
(浦田) 僕もそうです。何となくこの道に進むのかなあというのは思いますけど -。
そう思ういちばんの不安要素は。
(浦田)自分の芸でお客さんに観てもらったり、お弟子さんに習いに来て頂いたりする仕事なので、僕に

れができるのかなあと。
(河村) いろんな方から厳しい世界だということは聞いていますし、父の場合は本当に能が好きでこの仕事

やっていますが、自分の場合はそこまで好きだという自信がなくて、だから一生やっていけるのかなあ、と

不安に思っています。
そういう不安をいだくのは、きっと二人とも今、“能楽師”という進路と真剣に向き合っているからでしょう。

日頃の稽古にも熱心に取り組んでいるときいています。他にやってみたいと思った職業はあるんですか
(浦田) 具体的な職業はないですが、周りの大学の友人達が、授業の選び方とか就括を見据えた行動をとる
のを見て、この世界に生まれてなかったら同じようにしていたのかなあと感じます。
(河村) 僕も具体的な職業とかはないですが、バイトというものをしたことがなくて、接客とかを一度やってみたいなと

思ったりします。
クラブ活動とかは今までやっていましたか。そのことで何かお父さんに言われたことは。
(浦田) 僕はテニスをやっていました。真っ黒になって怒られたことがあります。
お父さん (浦田保親師) も夏の素謡会の時、真っ黒で怒られはったことがありますよ 

(笑)。紀仁くんは?
(河村) バレー部に入ってました。三回指を骨折して、「次骨折したら辞めさせるよ」と言われました。
私もバイクだけは乗るなと言われてました。けがは確かに具合悪いしねぇ。お二人とも大学一年という歳になら

れているわけですから、ぽちぽち答えを出さないといけませんね。
(河村) 早いうちに決めたほうがいいとは思っています。
(浦田) 母も白黒はっきりしなさいと。グレーなままがいちばん良くないと言っています。
我々の世代よりは正直大変です。ただ仕事というものはみな大変なものだし、継ぐということに対しての

責任ばかりを負うのではなく、仕事としての責任を感じて欲しいと思います。我々もあなたたち世代の不安ばかり

を案じるだけでなく、もっと魅力をつたえなければならないと思います。二人の年頃は、どんな道を選ぶにせよ、

不安になるのは当たり前のこと。是非、良い意味での責任感を高めていって、我々と軌を一にしてほしいと

願っています。

今日はありがとうございました。

 


2015年6月10日 

                                                  「改めて宇治正夫先生から教わったこと」
                                                                                                昭和40年卒 段野治雄

 社 中の一員として宇治先生の指導を受けていた時分、大阪の稽古場で船橋さんという方とよくご一緒しその稽古をよく聴かせてもらったり、大会の前の稽古で社中 の大先輩が大汗で大きな声で謡っておられるのに「聞こえません、もう一度!」と十度もそれ以上も先生からやり直しを命じられている稽古がとても参考になり ました。
ま た当時よく出張で家を留守にしており、毎日5分の練習もできません、との言い訳をしたとき先生から「声を出さずに謡をする」ことを勧められながら怠惰から 実行せず、先生が亡くなられて数年たってそれを思い出して実行しました。それが自分なりに、謡の奥深さを覗くことができるようになったと実感できたきっか けでした。
 この会誌は私が2年生後期から入部して間もない頃の発行で、この記事を読むことが出来たはずですが全然記憶にありませんでした。今の私には多少の理解が及んで改めて興味を引きました。そんな部分を抜粋します。

神戸大学風韻会会誌第3号(30周年記念誌 昭和38年3月発行)「座談会 宇治先生を囲んで」より

前略
藤井:~戦前と戦後とでは習う人の気持ちはどうでしょう?
宇 治:大きくみて変わってますね。一番感じるのは、戦前は稽古場で初めから終わりまで居る人か、または半分程は聞いている人が多かったものです。今は自分の 稽古が済むと帰る。時間が無いということもあるのでしょうが、他人の謡というものを聴きませんね。それから所謂、微妙なところを聴いて参考にしようとする ところがない。合理的に聴いて、あとは自分で判断していこうとするようです。昔は、「あの先生はこういう謡い方をする」とは言っても「本はこうだ」とは言 わなかった。私はそんなことは無頓着でした。根本的原理があって、拍子に合うからどう、合わないからどうという根本の原則が問題で、他のことは問題でな い。昔の人は止むを得ず先生の謡を聴いて耳を頼りにした。それだけに精神的な面では深かったんでしょうね。今は眼ばかり働かせるため、解りにくいです。」

中略
久下:先生が謡をお習いになった頃はどんな練習方法をなさいましたか?
宇 治:色々ありましてね。寒稽古というのは、正月6日から初めて、寒の間年越までやる。これは、部屋の中を暖め、蒸気を立てておいて1時間半程やります。初 めは声を出さずに腹だけで「それ青陽の春になれば・・」とやり、次にスリ声というか、喉をスッて「それ青陽の・・」とやり、しまいにまともに声を出してや る。これは非常に合理的であって、声帯を破らないのです。
  若い時は摩耶によく登りました。摩耶の奥の八丁は急な坂で、そこを走って登ったり降りたり、謡いながらね、息切れしないように。いつか摩耶を越えて有馬へ 降り、温泉に入ってまた六甲を越して帰ってきて、その晩月並会をやったこともあります。この時は参ったですね(笑)。その他色々やったものです。一番良い と思ったのは、部屋を暖めて寒にやることでしょう。

久下:僕たちの合宿で、4日位すると声がかすれて出なくなるのは、どうなのでしょう?
宇治:声帯を破る程やるのはいけません。毎日5分か10分でも続けてやって、時々長時間にやるのがよろしいが、1週間も2週間も休んで、急に長時間やるのは良くないです。効果ありません。まあ毎日20分位が丁度よろしいね。

井上:声が出なくなる程やるのはやり過ぎですか?
宇治:声帯が破れる寸前にやめる、(笑)声がかすれるくらいはある程度よいでしょう。

前田:1年生などは合宿に参加すると急に良い声になるようですが・・・?
宇治:そうでしょうね。しかし合宿を重ねるよりも、毎日やるのが良いのです。実際ある程度までは順調に上達しますが、それからは困難ですね。

井上:先生がいつもおっしゃる、腹に力を入れるというのは多く曲をこなして判ってくるものですか?
宇治:そういうものでもないでしょう。それは座禅と同じで、声だけでなく息を整えなければだめですし、気合ということも大切です。これは一朝一夕にできるものではないですね。
  私はいろんなことをやりました。正座法もやりました。手を膝に組んで背骨を真直ぐにして、天から清らかな水が頭のてっぺんに落ちてきて、これが身体の隅々 まで洗い清めてゆくという思いを込めて、1時間も瞑目していると、とても良い気持ちになります。無念無想といいますが、何も考えないでいようと思うとか えって邪念が湧いてくる。(笑)これは駄目です。今言ったように、天から清水が落ちてくるという気持ちで正座していると、無念無想になれる。~
後略


                   神戸 能楽師家訪問記(7)~昭和15101日発行「観世」より

 

風韻会  宇治正夫氏

                         昭和15101日発行 40銭(年間購読では4円)

 

 記者       何時頃から御稽古を御始めになりましたか。

 

宇治氏 十八の歳から村田可久先生が大阪から紳戸の稽古に見えて居る時に、手解きをして頂きました。

     それから兵隊に徴られて     姫路の衛生隊に二年間行つて居り、除隊になつてからは村田師

 

              の推薦で大西亮太郎先生に師事致しました。先生御他界後大槻十三師につき今月に至つて

 

              居ります。簡単な経歴です。

 

記者    あなたは仲々御意見の立つ方であると云ふことほ、紳戸観世會の定評ですから、一つ何なりと

 

              能楽に関する御意見を承はり度いと思ひます。

 

宇治氏 私は予(かね)てから思つてゐるのですが、謡の稽古は精神的にやりたいと云ふ考へを持つて居ます。

         稽古を附けるにしても節が原則的に悪いといふのは直すが、私が斯う謡うから斯う直すと云ふ考へは

     持つて居ない。

 

よく稽古の時に思ひついた折、詰をするのですが、例へば雪の降つた日に、何処が川やら、何処が路やら、

何処に落ち穴があるやら判らぬ様な、一面眞白になつて居る際、先達があつて目的地に進むといふ場合、

その先達が歩く高下駄の二の字の跡を辿つて行けば危険がない、無事に目的地に到達することが出来る。

 

たゞその場合に、足跡を辿るのに二つの行き方がある。

 

一つは一足一足、その二の字の歯形に嵌め込んで辿るのと、およその見当で方向を辿るのとある。

 

その先達の歯形にキッチリとはめ込んで行くといふことほ頗る(すこぶる)無理なことではないかと思ふが、

現代の稽古振りは、一般にさう云ふ行き方を踏んで居りはせぬかと思ふ。

 

つまり、人各々足形の大きさや足の運び方が違ふのに、同じ足形にはめ込むと云ふ傾向がありはせぬかと思ふ。私は夫(それ)に付ひては、二の字の足形はどうでもよい、唯腹にカを入れて一生懸命に声を出して謡ふと云ふ

ことを土台として、その一生懸命に出した声にフシを附けると云ふ考へを以て敦めて(をさめて)居る。

 

一生懸命に腹にカを入れると云ふことが肝腎である。フシは後から附けるのである。

 

記者    成程、立派な御意見ですね。

 

宇治氏 叉、師匠の稽古を聴く時でも、何にも考へないで所謂(いわゆる)無念無想できく、さうしてその時に感得した

     感じを以て力一杯に謡ふと云ふ風にしたい。

 

私は子供を澤山持つてゐますが、同じ両親から生れた子供でありながら、皆それぞれ性格が違ってゐて、

一つの事に対する考へも皆異つて居ります。

 

     従つて、それぞれその子供に感じて導いて行かねば、効果の挙がらぬことを累々体験させられてゐますので、

     どんな方に稽古する場合でも、基本練習の間は勿論形にはめますけれども、少し進歩してからは、

     どうもここが悪いと思つてもその困つて来る原因、つまり病原の判らぬ内は直さない。

 

いろいろと研密して、斯う云ふ考へでやるから悪い、といふ判然とした緒論を得てからは機に応

              じて猛烈に直す。

 

中には泣き出す人もある位で、特に誤解を受けるやうなこともありますが、眞剣にやつて居ります。

 

記者    成る程、さう云ふ徹底した御意見には大いに同感ですね。

 

宇治氏 稽古は、先づ姿勢を正Lて、下腹にカを入れ精神をこめて謡ふ。精神統一と云ふことが大切なことであると思ふ。大體、現今の謡をうたふ人がこの精神を正しく持つといふことについて、少し考へ違ひをして居るのでほないかと思ふのは、例へば能を見ても、謡をきいても、大部分の人がそれを小聲で付けるとか、ロの中で謡ひながらきいて居る。

 

半ば稽古旁々(かたがた)見て居るといふ風であるが、是れは大きな誤りであると思ふ。きく場合には何も考へないで心からきく、観る場合には何も考へないで心から見る。さうして姿勢を正して精神を統一して見るのでなくては不可んと思ふ。

 

記者    それも同感ですね。能を見る時にさう云ふ人が澤山あります。中には婦人方は舞台の方は後

         ろにして四邊を構はず聲高に饒舌して、随分周囲が迷惑をすることが屡々あります。

 

この方々は遊びに来て居るのかと思ふ様なことがある。さうして夫は、相当立派な服装した方で、

始終御顔を見受ける定連に多いのを見受けます。叉能が始まると早速謡本を開いて一緒になつて謡つて居る。

 

あれは、改めなけれぼならぬことですね。間近に居る人に取つてほ大変邪魔になる。

 

宇治氏 初心の稽古の際は、大抵フシも何にも判らん、カの入れ方も判らん、けれども今申す様に、精神統一をして

     姿勢を正して私の前に座つて、私の謡ふのを一生懸命にきけば、その場合に受け取つただけの感じが浮ぶから、その感じを以て謡へばフシが違つても.カの入れ方が違つても構はない、一生懸命の感じを以て謡へば

     それで宜しい、それを導くのがこちらの役で、段々と判つて来るやうになるのです。

 

記者    あなたのさう云ふ御考から見れば、教へよい人、教へにくい人と云ふことも出て来るわけです

 

              ね。

 

宇治氏 まあ白紙で来るのが一番教へよい、最も具合の悪いのほ、私は誰それのフシが好きだと云ふ人

 

              である。始めからさう云ふ考へを以て稽古するから、勝手にいろいろのフシを取つて来る。

 

さう云ふのは教へにくい。さう云ふ人にほ稽古をして居る中に、段々練習が積んでどんな曲でも謡へるやうに

なつてから、自分の好きなことをおやりなさい、と云つて注意して居る。

 

記者    先生は、商大で教授や生徒に教へて居らるゝさうですが、その間御感じになつて居ることがありませんか。

 

宇治氏 先生も生徒も大勢稽古して居られるが、師弟間の謡に於ける和やかな気分に感じます。それか

 

              ら教へると云ふことと、教へられると云ふ態度、さう云ふことが先生と生徒とであるから、ピツタリ

 

              と呼吸が合つて大変教へよいし、叉進歩も頗る早い。

 

記者    この間の道成寺は大変御成功でしたが、御感想ほ如何。

 

宇治氏 一世一代といふ考で精神をこめて勤めました。その前に道成寺に参詣して来たが、二三日た

 

              つてから道成寺から手紙が来て、無事にお勤めになるやうに本堂で祈願をしましたからと云つ

 

              て、当日御祈願の御礼と御供米などを送つて呉れましたので、非常に有難く思ひました。

 

又、師匠大槻先生を始め御相手方の皆様が熱心に後援をしてカをつけて下さつたので、大変力強く

心丈夫に思ひました。

 

御蔭で無事に勤めさせて頂きましたことは大きな御礼であります。

 

 

 

 〔附記〕 氏は明治廿七年五月十日生の本年四十七歳、夫人との間に二男三女があり、長男は神戸一中の五年生で、奥さんは家庭に於て茶商を営み夫君に封する内助の功が多いと聞く。氏の御宅は納戸市葺合区旗塚通一丁目一七、御宅での稽古は少ない由で、多くほ出稽古で何時も早朝から熱心に出掛けて居られるのをお見受けする。

 

 

 

 ※附記(西田)

 

戦前の「神戸謡曲界」の冊子をそれぞれ眺めていると、宇治先生宅で「茶園」を営まれることのお祝いの記事を見つけました。宇治先生が神戸能楽協会やお弟子の方々に慕われていらっしゃったことが伺えました。

 

 

 



昭和47年4月新築なった「観世能楽堂」杮落としの 日賀寿能ポスターです。
(先代宗家 観世元正)
パネルに仕立てる時、周囲を切り落とした為、日賀寿能の記述がなくなっています。
演能当日、能楽堂事務室でいただいた物です。「何枚いりますか?」と言われ「1枚いただけますか」と答えたのが今思えば残念です。保管用にもう1枚あればと後悔しています。
平成28年11月、新観世能楽堂の日賀寿能ポスターと並べて飾りたいと楽しみにしています。(勿論、次回は2枚いただくつもりです)
                山本秀人記