• 会誌「風韻」を「大学文書史料室」に寄贈保存されます
  • 井川一宏先生(神戸大学名誉教授)が春の叙勲で瑞宝中綬章を受けられました。
  • 文化庁支援、大避神社演能の「羽衣」
  • 鵺の声をめぐる覚え書き(京都観世会館会誌より)
  • 英賀神社 面掛式(平成31年)
  • 当サイト訪問者分析
  • 英賀神社 面掛式(平成30年)
  • 能舞台下音響効果(宇治先生、山本能楽堂、彦根城能舞台)
  • 部室への宇治邸舞台移設
  • 湊川神社 お面掛け (平成27年)
  • 宇治先生追悼文
  • 宇治朝子さん ご逝去を悼む
  • 脇田晴子さん、他界を悼む

        会誌「風韻」を「大学文書史料室」に寄贈

                                段野治雄

 

このたび東谷晃さんのお口添えにより、会誌「風韻」の全巻一揃えを神戸大学の

「大学文書史料室」に寄贈することとなりました。会誌各号を原敏郎さんはじめ

諸先輩から頂戴してこれまで当方で保管していましたが、そろそろ恒久的な保管

場所をと、考えておりました。部室にもありますが散逸を心配しておりました。

 

史料室では我々の文化活動と先生方の貴重なエッセイなどを貴重な資料として

その価値を認めてくださったものです。これで今後誰でもいつでも好きなときに

史料室で会誌の実物を手に取って見ていただけます。

なお全巻のコピーは、このホームページの「能楽部」にも掲載してありますので

念のため。

 

「大学文書史料室」

場所  :大学百年記念館1階(大階段を降りて右)

開館時間:平日の9:30~17:00 その他大学の指定する

休日(年末年始、夏期休暇など)を除く

電話  :078-803-5035

 

※会誌「風韻」は本ホームページの「謡会各G、神戸大学能楽部」に

PDFファイルでも閲覧できます。クリックで、ジャンプします。

1号~5号 6号~12号 13号~20号 21号~  


井川一宏先生(神戸大学名誉教授)が春の叙勲で瑞宝中綬章を受けられました。

先生には大学能楽部の顧問を長らく務めていただきました。(昭和62年~平成18年)

そして今も凌霜謡会会員として親しく私たちの仲間に加わって下さっています。

皆で心からのお祝いを申し上げたく存じます。

(記:段野治男)


                            2020年10月27日 14:00~

能楽の祖「秦河勝」を祀る大避神社において「羽衣」が演じられました。

 

 趣旨は、「コロナ禍において舞台芸術等の活動自粛を余儀なくされた文化芸術関係団体において

活動の継続に向けた積極的取組等に必要な経費を支援し、文化芸術の振興を図る」とされ

文化庁 文化芸術活動の継続支援事業による演能です。<本日の演能は動画配信されます>

 

〇能「羽衣」~羽衣伝承が典拠

   シテ:  大西 礼久(おおにし ふみひさ)

   ワキ:  松本 義昭   ワキツレ: 江崎 正左衛門、江崎欽次朗

   囃子方 大鼓:大村滋二 小鼓:久田陽春子(やすこ)

       笛: 左鴻雅義(S37年卒) 太鼓:三島元太郎

〇対談  テーマ ~大避神社と能楽の祖「秦河勝」について

・神戸女子大学能楽研究センター 大山範子先生と大避神社宮司 生浪島宮司

MCは赤穂市民能の世話役で活動中の西田美恵子氏(S46年卒)

                                  記&撮影 武内安雄 S46年卒


観世会館会誌6月号巻頭に「鵺」について、沖本幸子青学教授が寄稿されています。

鵺の文字が詞章中に登場は「鵺」「現在鵺(金剛流)」の二曲にのみですが、能では馴染みかも知れません。

 

以下、巻頭文より

     ==================================

             鵺の声をめぐる覚書
                                 沖本 幸子

 絶え絶えの幾重に聞くは鶴の声、恐ろしやすさまじや、あら恐ろしやすさまじや (「鵺」)

 能「鵺」に、通奏低音のように響き渡る「鵺の声」。「恐ろし」く「すさまじ」き声とは、

果たしてどのようなものだったのか。

 貝原益軒が鵺を「鬼ツグミ」(トラツグミの別名)と断じて以降(『大和本草』一五「山鳥」)

現在の定説はトラツグミだが、夜「ヒュー、ヒュー」と口笛のように鳴く声は決して恐ろしい

ものではない。『万葉集』 の 「うら泣く」 や「のどよぶ」を導き出す「ぬえこどり」の寂し
げなイメージに引かれたのだろう。
 一方、平安中期に編まれた『倭名類聚抄』には「恠鳥(怪しい鳥)」とあり、鎌倉時代の

『名語記』には、この鳥の声を聞いた人は呪文を唱えたり、しばらくその家を留守にするとあり、

正体不明ながら不吉な声の主と見なされていた。
 江戸時代にも諸説あって、儒学者朝川善庵は、長門本『平家物語』と『源平盛衰記』にある、

平清盛が「鵺の声」のする「化鳥」を捕らえたエピソードに注目している。「化鳥」の正体は

長門本では「毛朱」、盛衰記では「毛シウ」となっていて、共に「鼠の唐名」とされているが、

朝川はこれを 「毛未(もみ)」、すなわち、ムササビの誤記であろうと指摘した

(『善庵随筆』)。確かに鼠を「化鳥」と見誤ることはなかろうし、ムササビが座布団のように

皮膜を広げて空を飛び、「バンドリ」の異名を持つことを考えても、鵺=ムササビ説は一考に

値しよう。
 ムササビは「グルルルル」と猫が甘えたような声を出すことも多いが、時折「ギヤーッ、

ギヤーッ」と、あたりをつんざくような不気味な声を出す。初めて聞いたときには心底ぎょっと

したが、この声を聞きつけた人が「森の方で誰かが殺されている声がする」と警察に通報
し大騒ぎになつたことがあるというのも領ける (旧東北大学植物園
http://www.biology.tohoku.ac.jp/garden/aobayama/63Petaurista.html、2019年4月13日確認)。
 また、鵺=フクロウ説を提示した賀茂真淵は、実際に鵺の声を聞いた人たちの言葉を

書き残しているが、彼らの「遠い谷で鳴いていても聞こえる高く苦しい声だ」とか、

「今の猿楽の笛のひしぎという音のように鳴く」(『冠辞考』七「ぬえこどり」)といった表現は、

フクロウというより、むしろムササビの奇声にぴったり重なるものだ。
 こうしたムササビの奇声は、求愛行動時に他と争う際に発せられるという説もあり

(安藤元一・倉持有希「ムササビPetaurista leucogenysの音声コミュニケーション、

『東京農大農学集報』 53、2008年)、初夏と冬とがムササビの交尾の季節であること

(川道武男『ムササビ』築地書館、2015年)、鵺が鳴いたという記事が、初夏から夏に多いこ
と(『殿暦』永久3年(1115)6月25日『台記』康治3年(1144)4月25日、

天養元年(1144)6月18日等、覚一本『平家物語』の鵺退治の例も仁平の頃(1151-54)の

4月10日あまりと応保の頃(1161-63)の5月20日あまり)を考え合わせるとたいへん興味深い。
 そもそもトラツグミやフクロウ類、夜鷹など、夜鳴く他の鳥たちと比べても、ムササビの

声はきわだって大音量で恐ろしい。しかも、ムササビは山林のほか、社寺の林や屋根裏に

住み着くことも多いから、近衛天皇が、夜な夜な東三条の森から御殿にやってきては鳴くその声
に、気絶し病気になつたと語られるのもよくわかる。だいいち、鳥だと思って捕まえたら

不思議な獣だったというあたりにも、ムササビの面影が色濃く感じられよう。

 能「鵺」の中にこだまする鵺の声。寂しげで美しいトラツグミの声よりも、狂気をはらみ、

怒りをはらんだムササビの声の方が、化物の苦しみも悲しみも一層きわだつと思うが、どうだろう。
                       (青山学院大学教授

        ===========================

武内記(1971年卒) 、元号の西暦年は武内付記


        英賀神社(姫路)面掛式

平成31年1月3日(木)11:30~12:00 井戸和男師による翁「面掛式」がありました。

地謡は地元ワキ方の江崎正左衛門師と江崎欽次朗氏です。(記 武内<1971年卒>)

※井戸師サイドより、画像削除要請がありましたので、削除しております。


2018年6月の当サイト訪問者分析です。

「神戸大学能楽部」「mobile」は三大学合同発表会の影響でしょう。


           英賀神社の面掛式

1月3日(水)11時45分~12時10分 姫路西部の英賀(あが)神社の「面掛式」の様子です。

井戸和男師が「面」を受け、翁を演じられます。謡は地元のワキ方、江崎正左衛門と欽次朗師です。

面を掛け、翁舞を奉納し、今年の五穀豊穣を祈り、面を取って終了です。

                                               (1971年卒 武内安雄 記) 


10月3日(火)毎日放送「ちちんぷいぷい」

山本能楽堂の取材を紹介します。

 

宇治先生の稽古舞台下が音響効果のため凹面に

なっていました。山本能楽堂では12個の瓶が

用いられていました。

なかなか舞台下まで見ることができませんので

興味深いものでした。

 

山本章弘師の能楽普及活動は

「能に触れられる機会増」と

「関心を持って貰う様々な工夫」です。

LED照明の演出、海外での活動、

能舞台活用で落語、文楽、能装束の体験など

なみなみならぬ熱意を感じます。

又、2階の茶室から観能できる贅沢も味わえるようです。

稽古用アプリの開発、年末には宴会開催など。この番組で、分かりやすく紹介されました。

2017年10月3日 毎日放送より (46年卒 武内安雄記)


彦根城 能舞台音響効果の漆喰枡には舞台を支える柱は無かったそうです

(現在10人以上同時の舞台使用禁ず)             武内記

御広間棟と御書院棟の間の空地には、1800(寛政12)年に能舞台が建立された。発掘調査でも、

この能舞台の「舞台」・「後座(あとざ)」と「橋掛り」の床下から漆喰製の枡を検出した。

舞台と後座の枡は、幅5.6m、奥行8.3m、深さ0.9mを測り、橋掛りは幅1.7m、長さ9.8m、

深さ0.5mと巨大なものである。能舞台は、通常、床下に甕を配して音響効果を高める工夫が

なされるが、この能舞台では床下全体を掘り下げ、漆喰枡を用いて音響効果を高めていた。

近年、大名屋敷の発掘調査の増加に伴って、本例のような能舞台の床下を漆喰枡とする類例

が増加している。今後、注目したい遺構である。

http://www.city.hikone.shiga.jp/0000005224.html ← 詳細URL


5月31日(水)「故宇治先生邸敷舞台等移設作業」が終了し、記念の銘板を取り付けました。

修復された鏡板、敷舞台はご覧の通りです。

詳細は、経過を含め後日報告の予定です。

 


平成29年5月2日
    部室への宇治邸舞台移設完了
                 段野より

宇治邸敷舞台の部室への移設工事が4月28日に無事完了しました。
舞台は部室にすっぽり収まり、周囲は従来の敷板を加工して敷き詰めました。大収納の靴箱も完備です。
5月中を目途に、鏡板の補修作業も進んでいます。
6月10日の凌霜謡会は、この「移設記念謡会」になります。その後日に現地見学会も考えてもらっています。
画像は解体前の鏡板全景です。ほころびが目立ちますが、さあ補修後はどんな姿になって帰ってくるのでしょうか、ご期待下さい。


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

                                                               平成29年4月19日
                   部室への宇治邸舞台等移設工事のご報告

宇治家のご厚意により、宝塚の舞台等を大学の部室に移設して活用させていただくことになったことは、

先にご報告いたしました。そしてその工事がいよいよ始まりました。

4月17日に舞台敷板と老松の鏡板の取り外しが無事完了しました。


足拍子の音の反響を考えて、床下は甕を埋める代わりにコンクリートで舞台中心に向かって

沈み込ませてあり、真ん中の支柱1本で舞台を支えてありました。

またヒノキ板は反りが出ないよう裏に何か所も木組みが入りまた、板同士は和釘で止めて、

二重に反り防止が施されていて、全体にとても丁寧な作りになっていました。

鏡板はかなりの箇所がはがれたり、糊で簡単に補修した所があったりとずいぶん傷んでおりましたが、

絵そのものが立派なだけに、表具屋さんからは、頑張って補修しますとの力強い回答がありました。

18日には部室の道具類を運びだし、床を固定するためのアンカー打ち作業が始まります。

そして来週の始めには舞台が完成する予定です。なお鏡板の出来上がりは時間がかかり、

6月に入ってからになります。

天井は格天井の立派なものでこれもほしいところでしたが、残念ながら部室に設置することは困難で

あきらめました。

どうぞご期待下さい。
                                                           段野より


写真は湊川神社「翁」面掛式(西田さんより)

 

2010年に姫路の公報(別紙?)に『今も続く「お抱え能楽師」の記事が目にとまりました。

記事抜粋です。

 

「お面掛け」は、拝殿で面を付けた瞬間から神になる。神を招く神事として姫路では「お面掛け」と呼び、奉納は江戸時代初期から始まっています。その能楽師は、姫路藩では「お抱え能楽師」として、播磨の氏神である総社の秋祭りに能を奉納するのが一番大きな役割でした。そして、江戸末期に藩の能楽師を務めた手塚櫟太夫は別所町に住み明治になってからは在野の能楽師となって謡曲を教えていました。その弟子の駒井助次が昭和初期まで播州一円にかけて20人ほどで一座を作って各神社に奉納していました。長男の一郎は平成12年(2000年)の80才までお面掛けを務めました。現在は、山陽電鉄的形駅近くの湊神社で創建記念日の12月に「卯祭」として姫路藩の伝統が受け継がれています。勇壮な播州姫路の祭りの根底には、「お面掛け」神事が守られてきたからでは無いか、と神栄赴郷宮司のお話し。

 

 スポンサー義満登場で、舞台劇スタイルの能楽で生きていける見込みを見出した“座”は、特権を得ましたが、仲間として認めて貰える枠は限られていたでしょう。仲間になれなかった「芸能人」はどんな拠り所を見出したのだろう、と言う疑問に、この記事はヒントを与えてくれています。

 前田さん引率の徒然謡会で岐阜の能郷の里を訪れました。ここでの芸風からは、村のイベント企画に参画することで、生きて行けたことが伺えます。神社がイベント企画催行者で今で言う芸能事務所の役割を担っていたかも知れません。神社側も良い演出で氏子の集まりが期待できます。

 

 こんな問いかけに、能楽と能楽研究大好き女史の西田さんが、生田神社から記載写真含む貴重な情報を得ました。今も「お面掛け」神事を舞台能楽師が受け継いで「翁」を神殿で演じてる写真です。(武内記)

 

 1月7日11時から湊川神社で「翁」面掛式が能楽神戸観世会有志で奉納されます。

 

 近いうちに西田さんの精力的な研究調査報告書が・・・・・。

 


10月に宇治朝子様が亡くなられて、宇治先生関連の写真や書類の整理をさせていただいておりますが、宇治正夫先生のご逝去についての追悼文が見つかりましたので紹介します。

《なかんずく神戸大学能楽部には・・・関西の大学能楽部の雄に育て上げられた》とありますが皆さんの思いは如何?

画像は「観世」昭和61年5月第53巻第5号

なお写真の整理をすれば懐かしいものもご紹介できるかもしれません。

                 (段野 記)


            宇治朝子さん ご逝去

宇治朝子さんが10月9日に満88歳で亡くなられました。
昭和59年に、部の師匠がご高齢のため宇治正夫先生から藤井久雄先生に代わられましたので、その後の部員にはなじみのないお名前だと思います。
平成24年に能楽部創立80周年の記念行事を催しましたが、その創部の昭和7年に、故藤井茂経済学部名誉教授が宇治正夫先生を師匠として招聘されたのが宇治家と部の関係の始まりでした。
 戦中戦後の能楽界・素人の趣味の世界も大きな混乱期であったときに、宇治先生を陰で支えられたのが藤井茂先生と、そして社中では三菱重工の加藤芳雄さんでした。戦後に部活動をいち早く復活させ、多くの大学教官を謡の趣味に勧誘したりと、宇治・藤井のコンビのおかげでその後の大学風韻会の活動は活況を呈しました。そんな信頼関係もあって宇治先生は終始私たち神戸大学関係者には格別のご厚意をもって指導に当たられました。
 そして宇治先生が昭和61年に亡くなられたあとも、先生を慕って毎月卒業生有志と社中有志とが、練習会と称して舞台をお借りして謡っておりました。その後朝子様が体調を崩されてそれもとうとう取りやめになりましたが、直後にそれを引き継いで始めたのが平成23年2月から始めた「凌霜謡会練習会」だったのです。
 私たちは宇治先生のお世話になったわけですが、同時にそのご家族の、早く亡くなられた奥様そして長女のみつ子様、次女の朝子様の私たちへの常に行き届いたお心配りとお世話のおかげをこうむったのでした。直接にみつ子様、朝子様のご指導を受けた卒業生もたくさんいらっしゃることでしょう。
 今回のご逝去に際して、能楽関係の諸道具とともに、ご自宅の舞台のヒノキ板を大学の部室に活用することを「宇治先生も本望だろう」とご親族に快諾していただきました。最後の最後まで大学の部活動のためにご尽力下さる宇治ご一家のご厚意に、10月10日の葬儀ではご霊前で改めて深く感謝の意を表し、ご冥福を祈ってまいりました。
                                                       (昭和40年卒 段野治雄)


《脇田晴子さんの他界を悼む》

脇田さん(旧姓 麻野)は、昭和9年3月、西宮市の旧家の生まれであります。(小生は同年2月生まれですから ほぼ同年仲間)
 

ご家庭は何かと 我が国の伝統文化と深いつながりを大切にされ、晴子さんも幼少のころから 謡や仕舞をはじめ、伝統文化に強い関心をもつよう、無理にも教えられそれを地盤として【日本中世文化の研究と女性の社会的地位の向上という 歴史研究での大分野での学者としての成功と文化功労章及び文化勲章受賞への道へと続いたと、自身でも感謝している】と洩らしていました。

 長じて、晴子さんは、名門 兵庫県立第一高等女学校に入学し、牧は同年、兵庫県立神戸第一中学校に通学していたところ 両校が 占領軍の学制改革命令により合併を強いられ、神戸高校併設中学校となり、両人は偶然だが文字どおり同じ学級で机を並べて日本初の男女共学を送る日々となりました。然るに再び、占領軍の命により、併設中学の閉鎖と米国式学区制への移行を余儀なくされ、晴子さんは、自宅地域の新制高校へ強制転校、牧は自宅が学区内につき神戸高校へと、他の大勢の犠牲者と教師とともに、不本意ながら、友人関係が断絶された、今日では考えられない混乱に追い込まれたのであります。
 
然るにその三年後、全く偶然ですが、晴子さんは、神戸大学文学部べ、牧は同学経営学部へと進学を果たし、再び友人関係が復活したのですが、今度は、その復活のベースが、実は神戸大学風韻会(観世流謡曲部)でのクラブ活動であったのです。晴子さんも 文学部での研究目標をすでに、「中世の文化と女性の社会的地位」 に定めており、室町時代に盛んになる女性芸能と観阿弥世阿弥の世界の研究を進めるべく、すでに能楽の稽古を、京都の著名能楽師を師匠と定めて深めはじめていたのです。然しながら、牧の強い勧めにより、「風韻会での稽古には参加できないが、発表会や稽古会には参加する」との条件で、クラブのメンバーに登録し、中学時代の友人関係の復活と、能狂言の世界での共同活動の縁を結ぶことに 成功したのです。
 
このご縁は、晴子さんが、後に 京都大学文学部へ転学し、中世文化と女性芸能と社会活動の研究に没頭し、遂に 大学院で文学博士号を獲得、さらには 研究を極めるため モンゴルや欧州・米国など世界各国の大学や芸術家を頻繁に訪問するなど、大活躍の傍ら、凌霜謡会や大学・高校の行事への出席をこころがけ、其の上、自身がシテを勤める 能【姨捨】ほか通算数番、京都・大阪で演じ、凌霜謡会の後輩を見所に招いてその素人芸を越える成果を見せ、後輩の鑑としたこと、また、驚くことに、島根県の石見銀山を世界遺産に登録する運動の先頭にたって、自作の「新作能 石見銀山」をみづから各地で講演し、凌霜会員を招くなど、凌霜謡会との縁が、当初 牧が期待したよりも はるかに深まったと、思っております。
 
 さて、晴子さんの このような獅子奮迅の大活躍のエネルギーは どこから出たのでしょうか。もともと彼女は「女性芸能とその社会的存在価値」「時代推移による 女性芸能者の芸術的覚醒」「能楽はじめ日本伝統文化と世界各国文化との関連ないし共存」などの研究により、「今後の日本の伝統芸能を支える理念と、芸能者の社会的地位は どうあるのか また それらと日本人の宗教感はどうなるのか」を考えようとする目標への エネルギーではなかったか?と思料するのです。そのためには、晴子さんは、単に 大学や書斎での思考だけでは不十分で、「晴子さん自身」が【芸能者】としての体験と苦心を常に自ら行ってみることが、必須だど考えたに 違いありません。即ち、彼女の舞台での活躍や、海外での交際的交流は、まさしく 「実験と証明」の手段であったと 私は信じています。
 
 また、これらの「実験と証明」の激しさが、晴子さんの肉体を傷めたのではないか とも言われますが、そうではなく、晴子さんの 良き指導者であり応援者である、御主人 脇田修博士と 三名の御子息のご支援の存在が極めて大きかったことを併せて考えるなら、やはり、晴子さんは、ご寿命を果たされて 安らかに天上へと還られたと 私は信じております。どうか 凌霜謡会の皆さんも、晴子さんのご冥福を お祈りくださるよう、お願いいたします。
 
そして、お互いに「能の世界」での勉強や楽しみを 更に大切にすることが、なにより 晴子さんのご遺志に添うことでは ないでしょうか。
                                                                     四回生(昭和31年卒) 牧 千 雄