東京凌霜謡会のあゆみ
平成31年1月11日、段野治雄さん(S40)及び武内安雄さん(S46)のご協力を得て、神戸大学の
六甲台にある凌霜本部を訪れ、会誌「凌霜」のバックナンバーから、「東京凌霜謡会」に関する
記事のピックアップ作業を行った。
その際に判明した「東京凌霜謡会」およびその関連記事について整理し、ここに「東京凌霜謡会
のあゆみ」として記録してみた。既に会員の皆さんがご存知のことも多いと思われるが、一部でも
新しい発見があり、60数年に及ぶ当謡会のあゆみと営々と引継いでこられた諸先輩の御尽力に思い
を馳せて頂ければ、まことに光栄である。
【昭和初期の活動】
会誌「凌霜」に「凌霜謡会」の投稿記事が最初に登場するのは、1927(昭和2)年である。
時安一郎氏(5回生)はじめ幹事8名の方が、凌霜会員のうち謡曲に興味を持つ19名の神戸高商OBを
探し出し、謡会開催の案内状を出したところ、9名の方の参加を得て、1927(S2)年11月13日大阪西
長堀の三菱倶楽部で初回の「凌霜謡会」を開催した。番組は素謡「竹生島」「蝉丸」「弱法師」
「井筒」「頼政」「紅葉狩」の6曲と、仕舞「松風」「天鼓」「蝉丸」「鵜飼」「松虫」の5曲で
あった。初回の参加者はすべて観世流の愛好者であったが、この会を「自由な謡会」と位置付けて、
他流派の謡曲愛好者にも広く参加を呼び掛けた。*1 《*nをクリックすると「凌霜」の該当記事にジャンプします。》
その結果1928(S3)年1月22日の第2回謡会(於高麗橋の日本生命倶楽部)には13名の参加があり、
素謡「東北」はじめ9曲を謡った。この時の幹事には、長谷川輝世鷙氏(2回生)、時安一郎氏(5回生)、
吉川貢氏(9回生)、大平千吉氏(11回生)、大久保銀太郎氏(11回生)、伊藤則忠氏(11回生)、井上和吉氏
(12回生)、栗岡治作氏(15回生)、吉田英三郎氏(18回生)の9名が名を連ねている。*2
その後、第3回の謡会が同年3月18日に計画されたが、諸般の事情で5月27日に延期して開催する
旨の予告が投稿されている。*3 但し、5月27日の開催実施の記事は見当たらず、この第3回の謡会
が開催されたかどうかは定かではない。
上記は関西における活動であるが、おなじ頃東京での活動としては会誌「凌霜」に「帝都謡曲の
研究会」の開催が案内されている。その内容は、
一、 時 昭和3年2月5日
一、 番組 加茂、俊寛、松風。三輪、安宅、東北、蝉丸、猩々。七騎落、弱法師、絃上。鉢木、羽衣。
外に獨吟、仕舞、狂言 ご随意。 各流派全部歓迎。
一、 會費 金貮圓以内
一、 場處 上野公園又は芝公園内茶亭
とある。
『東京朝日講堂の年中行事として、謡曲5派各宗家の連合の會が催ほされて帝都斯界は・・・・
賑はひを見せて居る。長閑なる春の日、素影寒香の裡、半日の遊を共にせんとす、來れ友よ!』と
(日本毛織) 音申吉、(東京朝日) 井上貴與記、(正和洋行) 關次吉、(三興商會) 鈴木寛一 の4氏が
凌霜会員に呼びかけている。*4 但し、この研究会開催実績の記録は残念ながら見当たらなかった。
【東京凌霜謡会の創設】
1933(S8)年の5月に満州事変は終結したものの、1937年の盧溝橋事件以降日中戦争に突入し、
南京国民政府樹立へ向かう長期戦の様相を呈していた時期であったが、1938(S13)年9月15日発行
の「凌霜」第86号にD氏(伊達泰次郎氏と思われる)が、『名にしおう音申吉大人を擁しながら、
素謡會もなしとはいといぶかしきことどもなりと言ふ人の出て來たりて、・・・・』1938(S13)年
7月21日、愛宕山麓の郵船の倶楽部で大人を地頭に押し立て「東京觀世流素謠會(試會)」を開催
したことを報じている。
賀來(1回生)、音(6回生)、伊達(6回生)、松川(10回生)、中島(11回生)、田中(16回生)の6氏が参集し、 「三輪」「兼平」「千手」「阿漕」4曲の素謡が音氏を地頭として謡われた。*5
上記の素謡會は試會とされているので、この会の発起人たちは定例の素謡会への発展を期して
いたものと推量される。しかしながら戦時中の混乱の中、この会の継続は叶わなかったのであろう。
日本毛織の支店長であった音氏に関しても「ソ聯の漂流機雷のため日本海に於いて、商船氣比丸が
爆沈し・・・」同氏がその遭難者として報じられたが、その3日後に救助され神戸に無事帰着の報告に、
クラス会が『生還記念祝賀会』として開催された旨の投稿記事なども「凌霜」に見受けられた。*6
太平洋戦争も1945(S20)年8月に終戦を迎えた。終戦の混乱期にも拘らず、音氏ら謡曲愛好家達は
1949(S24)年頃から凌霜の観世流謡曲の謡会として「ヒマラヤ謡会」を開催していたようだ。1954
(S29)年3月20日に、ヒマラヤ謡会の主要会員を中心として「東京凌霜謡会」が結成された。
第2代の幹事である高田透氏(10回生)が、1966(S41)年に「能謡を楽しむ(その2)」と題して「凌霜」
に投稿した音氏の追悼文によれば、
『音氏は、東京うたひ会の創始者であった。この会の前身は「ヒマラヤうたひ会」であって、
これは昭和24年頃以来継続していたが、昭和29年に「凌霜うたひ会」に改名された。その当時の
情況は音氏が残したこの日の手記(次の《 》内)によって明らかである。
《凌霜第6期の伊達、日塔、竹内、音、久々江が観世流の謡を嗜んで居るので、2年程前から毎月
1回謡会を楽しんだ。ヒマラヤうたひ会と称した。追々凌霜同人が参加して今では十数人を数え
るようになったので、此月から凌霜うたひ会と改めた。京浜が開催地である為、自然、観世流を
習って居る者が多いが、宝生流の江波戸君が熱心に参会されるし、金春流の井上貴与記君が来会
されることもある。今は引続き日本毛織の白金寮で土曜の半日を楽しみ、会後簡単に盃を交わし
て歓談する事にしている。・・・・・・ 》 ・・・・ 』 *7
(注1) 創設日と参加者・番組について
第4代幹事の安村慶次郎氏は、1978(S53)年8月1日発行の「凌霜」第260号の5月例会(第250回)の投稿記事
の中で「5月例会は、当会が昭和29年に音申吉、高田透氏等により結成せられ、・・・・・・実に250回目の例会
に当った。」*8 と記述している。
また高田氏自身は、上記のとおり結成日を1954(S29)年3月20日としており、ご自身も「私が初めて 音氏
に接したのは昭和二十九年ごろ日毛の白金寮の謡会の席上で音氏他十名余りの方々に紹介された時であっ
た。・・・・・・ 私が音氏から幹事役を引継いだのは、・・・・・・ 昭和三十三年春の頃」*9 としている。
創設日に日毛寮に集ったのは三田村明、伊達泰次郎、沢木正太郎(如水会)、松本幹一郎、久住昌男、音申吉、
西川清 及び高田透夫妻の9名で 「嵐山」「忠度」「千手」「隅田川」「鞍馬天狗」のほか囃子「笠之段」
「熊野」を演じたと記録されている。*7
(注2) 会名の表記について
当会の会名については「東京凌霜謡会」や「東京凌霜うたひ会」「東京凌霜うたい会」などいろいろな
表記がある。 高田氏の表現は一貫して「うたひ会」であるが、他の投稿者の大半は「謡会」で、たまには
「うたい会」と表記する人もいる。 創始者の音氏は「凌霜謡会」と記録されているようなので、この「東
京凌霜謡会のあゆみ」の中では、引用文を除き、「謡会」と漢字表記する。
(注3) 「東京凌霜謡会」の前身の組織について
当会の前身組織として、柳原仁哉氏(S25)が平成21年の会誌「凌霜」に『最初は神戸高商時代の謡曲部の
名称を踏襲して「天狗会」と称されていたのが、その後「東京凌霜謡会」と変更された』と投稿している。*10
また、内海実氏(S2)の「第8回凌霜関西謡曲大会」の投稿記事(1967.07.07発行)によると『私は昭和二年卒
ですが、筒井ケ丘在学の4年間・・・・謡曲は観世流の鞍馬会があり其名の如く天狗揃いでした。』とある。*11
柳原仁哉氏ご自身に記述の根拠を尋ねてみたが記憶にないそうなので、ここでは創始者の音氏の手記に
基づいて当会の前身は「ヒマラヤ謡会」として話を進めることにする。
(注4) 創始者の音氏の経歴・人となり等大変興味深いものがあるが、その調査・記録は別の機会に譲る。
1954年3月20日の「東京凌霜謡会」の創設後、毎月1回の謡会が土曜日の午後、日本毛織白金寮で
開催されてきたようであるが、具体的な開催内容は「凌霜」には投稿されていない。但し、創始者
音氏が、1956(S31)年5月1日発行の「凌霜」に「世話人音生」の名で、前年2月の明治礦業熱海寮で
の別会、7月の葉山の松本氏別邸での別会および同年2月の三菱養和会の熱海小嵐荘での別会を、
各々1泊2日で実施したことを詳細に記述している。*12
いずれの別会でも9~10数名の参加を得て、番謡・素謡10曲程度と一調・番囃子・仕舞等多彩な番組が
掲載されており、かなり活発な活動が行われていたものと想像される。
【凌霜謡会の東西交流】
このように活発な活動を続けてきた「東京凌霜謡会」であったが、1960(S35)年には最長老の伊藤
述史氏(1回生)が、1962(S37)年には創始者の音申吉氏が逝去された。1958年に第2代目の幹事に就任
した高田透氏が「故伊藤述史氏と謡会」「能謡を楽しむ」と題して、両氏の追悼文を会誌「凌霜」に
投稿している。*13 高田透氏はこれを機会に会員の謡曲・能についてのアンケートを実施して、
謡を始めた時期・動機、師匠名、能実演の経験、能・謡曲等に関する感想等を「凌霜人謡曲歴調べ」
として「凌霜」に投稿している。 当初は東京会員の謡曲歴等の調査を始めたようだが、東京方面の
会員だけだは片手落ちであると気づき、関西側の幹事役であった井口宗敏氏(T11卒)にお願いして
関西の会員各位の謡曲キャリアを取りまとめていただき、関西会員を含めて大正7年卒以前の35氏の
謡曲歴が「凌霜」に7回に亘って連載されている。*14
このアンケートが契機になったのか、東西謡会の交流が続けられたらしく、1971(S46)年11月13日
に神戸大学の学生会館で初めて東西合同凌霜謡曲大会が開催された。この記録によれば西側幹事の井口・
藤尾・谷本3氏の非常なお骨折りによって開催が実現したようである。東側からは西村二郎氏(T7) 、
安村慶次郎氏(S4)、高岡幸彦氏(S19)が参加されている。(高田氏は1966(S41)年12月29日逝去、東京の
幹事は3代目=西村氏、4代目=安村氏) 謡会終了後は、参加した現役学生諸君も交えてコンパが行われ、
東西の凌霜謡会の現状報告等々で歓談したようである。*15
現在も東西交流が続けられていることに鑑みれば、以降も東西交流は継続的に行われてきたはずで
あるが、残念ながらこの「東西合同凌霜謡曲大会」以外の「凌霜」投稿文は発見できなかった。
【東京凌霜謡会の変遷】
(1) 会員と番組について
創始者音申吉氏の手記にあるように、観世流謡会であった「ヒマラヤ謡会」から「東京凌霜謡会」
へ改称した主たる目標は謡曲を愛する会員による自由な会とすることであった。流派にこだらず、
謡曲愛好家に広く呼びかけた結果、宝生・喜多・金春等の各流派からも数人の参加が見られた。
彼らによる謡会の番組を見ると、素謡や独吟だけでなく、一調・番囃子・仕舞・舞囃子等種々の演目
が毎回の謡会で演じられた。会員のご夫人方も多く参加され、厳格な中にも華やかな会の雰囲気が
うかがえる。
しかし創設当時の会員が次第に亡くなっていかれる中、他流派からの新会員の参加もなく観世流
の会員のみになってゆき、1970年代後半(昭和50年代前半)頃から次第に観世流の愛好家による素謡
のみの番組編成になっている。
会員数の推移は定かではないが、音氏による「凌霜」への投稿記事によれば、登録会員数が40名
超、当初の2年間に謡会に参加した人として26人の個人名を掲載している。*12 毎回の出席人数を見
ても、1960(S35)年頃までは常時20人前後であったが、1967(S42)年4月8日の「高田透氏追善謡会」*16
の29人をピークに、次第に10人前後の参加に減少していった。
1994(H6)年頃からは参加者数10名以下が続き、素謡の曲数を減らす月例会も散見される。
2003(H15)年頃には出席可能者があまりに少なく、休会とせざるを得ないケースあったようだ。
同年12月には登録凌霜会員が僅か9人となり、当時地元で観世流の名誉師範をされていた高岡幸彦氏
(S19)がお弟子さん4名をビジターとして迎え、謡会の存続に尽力された。*10
2018(H30)年12月末時点の会員数は、神戸大学卒業生13名(うち、2名は6か月超欠席中)、ビジター
3名で合計16名となっており、引続き毎月1回、素謡5曲を謡って楽しんでいる。
現役学生部員の減少にも見られるように愛好家全体が減少する昨今、会員が常に留意して当会の
会員増強に注力していくことが肝要と思料する次第である。
(2) 謡会の役職について
当会における役職については、創設当初から明確には規定されていない。創始者の音氏はご自身で
「世話人」として「凌霜」に投稿しているが、会員からはいつの頃から「会長」と呼ばれていたよう
である。音氏の死後、臼井経倫氏(T4卒)が「会長」職を継承し、*17 死亡時(1976年)迄その任に当た
られた。1975(S50)年6月の例会報告以降に「会長」の名は記載されておらず、会長職は同氏の逝去と
ともに廃止されたものと思われる。
世話人(役)・幹事の使い分けも定かではなく、在任期間もはっきりしない。呼び方は兎も角、初代
の幹事は創始者の音申吉氏(M45卒、1962年8月逝去)で、同氏父子が特殊ポンプ(日本機械計装=現
日機装株式会社の前身で、同氏は日機装の初代会長)の事業を始めて忙しくなった1958(S33)年春頃に
第2代幹事高田透氏(T5)に引継がれた。*9
高田氏もまた大変興味深い人である。観能、能楽書の勉強に非常に熱心で、特に拍子の研究を極め、
自ら創案の「地拍子五指法」を以って会員の謡曲を指導した。*18 御園夫人も常時謡会に参加され、
透氏の逝去後もこの五指法を参加会員に教授されたようである。
1966(S41)年12月、高田透氏逝去の後、西村二郎氏(T7)が第3代目の幹事を引継いだ。「謡曲の思い
出」と題する「リレー・随想ひろば」の中で、音会長、高田幹事を追想しており、『両御所の謡曲は
言わずもがな、会の運営、指導に妙を得、・・・会の発展に寄与せられた』と絶賛している。就任日は
「故高田氏のあと」とあるので1967(S42)年の初頭と思われる。*17
1968(S43)年末に西村氏の京都転居に伴い、第4代の幹事として安村慶次郎氏(S4)が就任することと
なった。 安村氏は永年に亘って謡会の運営にご尽力いただいたようである。
1978(S53)年5月、安村氏の任期も10年が経過し、第250回記念大会を機に渡辺藤四郎氏(S13)に幹事
役は引継がれた。*8
その後、1986(S61)年渡辺氏から大角征矢氏(S29)へ引継がれた。渡辺氏の投稿記事は原則として
「幹事」の役職が付られている。大角氏の投稿は、すべて「大角」と個人名だけで 行われており、
大角氏の役職名は不詳である。後述の四方氏以降は「世話人」を称していることから、本資料では、
渡辺氏以前を「幹事」、大角氏以降を「世話人」として記述する。
1993(H5)年、大角氏の福岡転勤に伴ない、再度渡辺氏が世話役を引受けられた。*19
その後、渡辺氏から四方常義氏(S33)へ世話役は引継がれたが、時期は不詳である。
1998(H10)年1月頃に世話役は四方氏から柳原仁哉氏(S25)へ、2007(H19)年末に西野公三氏(S33)
へ引継がれていった。*10
現在は、2017(H29)年4月から西野氏の後任として向濱幸雄(S44)が世話役を担当している。
(3) 会場について
謡会の会場については、幹事・世話役がいつもご苦労されていたようである。創設時には、創始者
音申吉氏が勤務する日本毛織白金寮を例会会場として借用し、年2回の別会は松本幹一郎氏(T11)のご
配慮で明治礦業熱海寮や同氏の別邸、臼井径倫氏の斡旋による三菱養和会熱海小嵐荘などで1泊2日の
音氏の日本毛織退職の頃と思われるが、月例会の会場は日本毛織の白金寮から代々木八幡の渋谷区
民会館、窮余の策として成城の喫茶店の2階を借りたりしながら、例会開催を続けた。*14、*17
1959(S54)年頃と思われるが、出光興産大久保寮が継続して借りられるようになり、以降約20年に
亘って利用させて頂いたようである。後に高田・西村両氏が「凌霜」の紙面で、出光氏のご好意に深く
しかしこの出光興産大久保寮も、1978(S53)年には改築の話が持ち上がり、10月以降は使 用不可と
なった。幹事はじめ会員の努力にも拘らず、10月例会は会場を見つけられず休会となった。 岡田
茂義氏(S4)らの奔走のよって、11月から銀座の交詢社の日本間を借りられるこができて、無事例会
再開が可能となった。*21 それでも交詢社の都合の悪い時は、日立 大﨑クラブや小石川別館、
新和海運白金クラブなどを利用させていただいたようである。
1999(H11)年4月例会は上記の交詢社で開催されたが、以降2000(H12)年9月例会が国際善隣協会ビル
5階での開催まで、「凌霜」への投稿記事が見当たらなかった。この間も月例会は続けられてきたと
思われるが、この1年数か月の間に理由等は定かではないが、月例会の会場が変更されている。
2002(H14)年7月からは、日比谷帝劇ビルB2の東京凌霜クラブで開催されるようになった。
なお、東京凌霜クラブは2011(H23)年4月に、六甲台3学部の卒業生を対象とする組織から全学部の
卒業生を対象とする組織に変更されたため、「東京六甲クラブ」へと改称さている。偶には日程変更
を強いられるが、会場探しに奔走する必要のない現状に感謝したい。
なお、会誌「凌霜」のバックナンバー調査で、1976年2月1日発行の第250号に里井三千雄氏(S31)
による「東京風韻会発足の御知らせ」と題する投稿 *22 があったが、関連記事が全くないため今回 整理の対象外とした。
何分、私の入会前の東京凌霜謡会のあゆみについてはわからないことばかりで、上記の記述に転写
のミスや誤解、あるいは失礼な記載がないか心配している。ご一読いただき、ご指摘やご指導を賜る
ことができれば誠に幸甚に存ずる次第である。
以上
2019(H31)年3月24日
(東京凌霜謡会世話人) 向濱幸雄
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《上記の *n をクリックすると会誌「凌霜」の該当記事へジャンプします》 |
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(参考資料1) 神戸大学の変遷
( https://ja.wikipedia.org/wiki/神戸大学#沿革 外より抜粋 )
西暦 和暦 月 事 項
1902 M35 3 勅令第98号 により「神戸高等商業学校」設立
・修業年限=4年(予科1年・本科3年)
・本科終了後専攻部(2年)は神戸高商と東京高商の卒業者だけが進学可能、
専攻部修了者には「商業学士」が授与された。
・初代学長=水島銕也(1903.01.09-1907.05.15、復職1908.202.25-)
・学舎=神戸市葺合町筒井村(現.中央区野崎通)
学生からは「筒台(とうだい)」と呼ばれ、親しまれた。
現在は、市立筒井小学校、市立筒井台中学校、市立葺合高等学校、
神戸海星女子学院 の敷地となっている。
1903 M36 5 授業開始 = 現.神戸大学の創設記念日
1906 『国民経済雑誌』(日本最初の経済学・商業学専門の学術雑誌)創刊
1923 3 第46回帝国会議で神戸高商の大学昇格が決定
1923 9 関東大震災により昇格事業は2年延期
1924 同窓会として「凌霜会」結成
1929 4 神戸高商を母体に「神戸商科大学」が設立
1935 S10 学舎移転 筒台 ⇒ 六甲台
1943 10 学生の徴兵猶予が停止
11 出陣学徒壮行会挙行
1944 10 神戸商科大学を「神戸経済大学」と改称
1947 6 官立大学初の夜間部として第2学部(就業年数=3年)を設置
1949 5 国立学校設置法公布により「新制神戸大学」が設立され、神戸経済大学を包括
(1962年3月に神戸経済大学は廃止)
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