(原文はB5判 縦書き3段組み)

 

           東京凌霜うたい会

 

 当会は臼井経倫氏(大正4卒)を会長とし現在会員四七名、毎月第三土曜午後一時より

 

新宿区西大久保二丁目三五四の出光寮にて例会を開いて居ります。会員の殆どが観世

 

梅若派を含む)ですが宝生流の人も三名います。本年八月のお盆の日に物故会員追悼特

 

集会報を発行しましたので、その中から前幹事西村二郎氏による「音、高田両氏を追想

 

して」を抜いて本稿としました。(九、二六、西村)

 

 

音、高田両氏を追想して        西村 二郎

 

 今日掃苔の日音申吉、高田透両氏を追想して一文を草する。

 

 故両氏は我々在京の同窓の中の謡曲愛好者で組織する東京凌霜謡い会の初代及び二代目

 

幹事であり、高田氏の急逝後二年間私が三代目幹事を勤め昨年末四代目を安村君に譲った。

 

音、高田両氏共謡曲を通じてのお付合であり、音氏の日本毛織、東洋パルプ(在満)にお

 

ける、又高田氏の三井物産、中村機械貿易における御活躍等については承知する処も尠く

 

本稿ではふれず、専ら両氏を趣味の面より追想することとする。

  

  音申吉氏(明治四十五年卒のヒマラヤ会員)がヒマラヤ会二十年記念(昭和六年)誌上

 で「謡曲は観世の流を汲む。志のある人には教えて上げても良い。宗家にもその内教えて

 やろうと思う。能ある鷹は爪を匿すというからこれ以上自慢はせぬ。」と言われて既に満

 々たる自信を示しておられる。そのヒマラヤ会の五十年記念誌(卒業五十周年昭三六)に

 は「今尚謡を教わり続けて発声に余念なく東京凌霜謡い会を主宰して毎朝井戸水で水垢離

 をとっている」と記され御精進の生涯に渉りしことを知る。又令息鎮夫氏も「残声」に寄

 せられた「故人を憶う」の中で「父を語るときはどうしても謡にふれなければならない。

 尺八から謡曲に変わったのはどういう動機で、又何時頃かは知らないが、兎に角父の謡曲

 は趣味以上のものである。中略、父に謡のあったことはよいことであった」と語っておら

 れる。

  大正末期昭和の初年頃は現在の清水要之助師の先代福太郎氏に、或いは故橋岡久太郎師

 に師事せられ、昭和五六年頃には既に素人の粋を脱しておられたように思う。剣の達人が

 その修行に心魂を打込むような稽古振りでその姿や声には古武士的な風格が常に漂って

 た。

  晩年には枯淡の味が加わり、些か誇大ではあるが神韻縹渺少なくとも超人的であった。

 今日あのような味を出す謡い手は少なく、又は無いと言っても良いであろう。「残声」付

 録の独吟景清を再生して聴く度にその感を深くする。

  故高田透氏は音氏に遅れること四年、大正五年の卒業であるが、その謡歴はずっと古く

 十一才(明治三十八年)の頃祖父に当たられる方より手ほどきを受けられ高砂、竹生島、

 熊野等十番を無本で覚えられたそうである(東京凌霜謡い会の昭和四十年会員キャリヤー

 調べより)。神戸高商入学前、尾道で約三年観世や喜多を習われ又卒業後(物産大阪支店

 在勤中)は大西派の観世流を稽古せられたが、何れも惰性的なものであったそうで、本気

 で稽古に打込まれたのは三井物産青島支店在勤時(大正十二年~昭和三年)の足掛五年、

 梅若派を修められ、この時期に充分なる基礎を会得せられた。

  師は梅若宗家より派遣の黒川正六氏であった由、昭和三年東京に転ぜられたときは既に

 一家をなされて没年に至るまで特定に師には付かれず専ら観世、梅若の会を暇に任せて見

 学して廻られ、益々その蘊蓄を深められた。能は十三才の頃尾道で船弁慶の子方に出られ

 たのが初めての終りで右手に少し痙攣の気あり、立方には不向きでやられなかったが、そ

 の代り観能、能楽書の勉強には非常に熱心で立派に批評家としても通用した。前記のキャ

 リヤー調べに「能は謡曲、仕舞、囃子を底辺とするピラミッドのようなもので、そのリズ

 ム組織は邦楽にも他に例がなく世界にも誇り得るものと思う。最近拍子の研究により謡の

 こつを会得できた気がする。その結果地拍子五指法を案出した」と言っておられる。高田

 氏創案の「地拍子五指法」はアウトラインの御説明を承っていただけで遂に理解出来ずじ

 まいに終ったのが遺憾の限りであるが、氏の門下の岡部幸一氏の言を藉りれば(経謡会会

 報第十二号所載)「昭和三十六年春高田透さんに付き地拍子の研究をはじめたことは私の

 謡歴において画期的な転機となった。やみ雲に素謡をうたっていた過去に比べて謡曲の世

 界の深遠さに眼を見張り、その仕組の非凡さに感嘆した。我々の偉大な祖先の遺した斯く

 も素晴らしい音楽の世界に開眼する手引きをして下さった高田氏に絶大の謝意を表する」

 と述べておられることからしても氏の研鑽の尋常ならざりしことをうかがい知る。その科

 学的な研究、地道な努力の集積に改めて敬意を表する。

  今や音氏逝って七年、高田氏去って三年、追憶の念を上記して稿を終る。

                               (八・一五記)