(原文はB5判 縦書き3段組)

 

 

                                故伊藤述史氏と謡会

 

                      凌霜うたひ会 高 田  透

  

 伊藤述史氏が長逝されて私共は貴重な先輩の一人を失い、哀悼の涙に暮れて居る。氏の経歴や

赫々たる公的生活の面についてはいづれその道の適格者が寄稿されることと思うので、ここでは

氏の私生活のその又一面であるところの謡曲を通しての横顔を略述するに止めたい。尤も氏は生

前観世流(梅若)青木只一氏に師事され、鼓は幸流、笛は一噌流を吹かれたが、それらの入門生

活のことは私はよく知らない、謡も何年位続けられたか聞洩らしたが造詣の深いところから見て

相当年期がはいって居たと思う。

     氏は吾々同好者の集りである凌霜うたひ会の一員であったので、お元気な頃は毎月の会へ出席

    され、また熱海大会にも顔を出されたことがあった。その技は大抵の難曲をマスターされていた

    上に、鉢木や景清など全曲を無本でやってのけて後輩共を後へ撞着たらしめたものだ。それに謡

    曲全般に亘って造詣が深く、氏独特の見識を持っていられた。三十四年三月、日本政府がアジア

    各国の仏教家を招いて釈尊二千五百年を讃える会を催した時には、氏がそのお膳立一切を引受

 たものだったが、その行事の一として外人に能を見せる計画があったが、伊藤氏は自ら筆を執

 て能楽の歴史と現状を説述した英文パンフレットを作成された。聞くところによると氏のやり

 は原稿を日本語で管々しく書いてそれを英文に翻訳するというのではなく、傍らにタイプライ

 ーを置いて参考書を見ながらいきなり英文を叩き出すものらしい。私は自ら筆を執って、と前 に

 云ったが此の点訂正をしておかねばなるまい。これも氏の芸能の一つだったと言えるだろう。

    また氏の芸風がタイプを打つ様な直情勁行的なところがあり、曲節にこだわる情調纒綿型では

    かったところなど面白い対照だった。

     氏の芸能は謡ばかりでなく仕舞もやり笛もよくせられた。昨年十一月には青木只一氏一門の謡

    曲大会で「石橋」の大物を吹く予定であったところ、健康がそれを許さず慶応病院に入院され、

    それから半歳の病院生活の後、遂に再び立つことが出来なくなり去る四月三日午前八時丗五分、

    折柄の花に背いて不帰の客となられた。

     慶応病院入院中、もと中学の後輩で現東大教授日野医博の診断を受けた結果食道癌と決定し千

    葉医大附属病院に移られたのが、丁度前記謠会のある当日だったらしい。千葉では日本一の評の

    ある中山博士の執刀でまづ胃を切開したが、胃の方は健全で癌に冒されていないことが分り、次

    で食道癌の切開をされた。その後下谷中央病院に移されて療養中、今年の一月二十六日であった

    か私は初めて聞いて音申吉氏に随って氏の病床を訪れた時は、面やつれはあったが氏自身は快癒

    退院の希望に満ちて居り、今一月半もしたら退院出来ると自ら語って居られた。音氏持参のメロ

    ンを差出したら大好物だといって喜ばれた。食物は口中で咀嚼してから人工食道を通して胃に送

    るのだったので、伊藤氏としてはてっきり食道をかい除し、癌の病根も食道と共に無くなったと

    思って居られたらしい。

     これは後日談になるが、伊藤氏逝去の翌々日、北沢一丁目の御遺族を見舞った際、未亡人から

    聞いたところでは、中山博士が食道を切開して見たら癌は既に気管支を侵し、肺にまで延漫して

    いたそうで医師は手術をあきらめて食道を取去るのをやめたのだった。それを伊藤氏は食道を取

    去ったものと誤信していられた。未亡人曰く「頭脳のよい主人でありましたがこればかりは主人

    の思い違いだったのです」と。だが勿論これは良識ある医師の配慮によるものであったことは明

    らかだ。

     癌は普通は全然痛みを伴わない。肝臓癌は発熱するそうだが食道癌は熱も痛みもない。食物も

    支障なく通過するが水だけは通りにくい特徴があるそうだ。併しこれらは一般に看過されやすい

    ので往々手遅れの原因となる。定期にレントゲン診断を受け早期発見をして手術せねば助からな

    い。癌は心臓病、高血圧と共に老人病と言われ、いま以て判然とした原因が確認されていないが

    それは恰かも胎児が母体内で勝手に成長し時期が来れば勝手に生まれて来るのと同じように自律

    神経がこれを司っているので、これを阻止する良法がまだない。薬を注射すれば癌の発育は阻止

    できるが同時に他の機関に障害を起す。さすが有能達意の氏もこの病気には勝てなかった。それ

    でも伊藤氏は癒ると思っていたから奥様から来訪者の名前を看護婦にメモさせる様に注意されて

    も「吾輩が覚えて居るからよい」といって取合わなかったという。最后は巣鴨の癌研究所に移る

    ことが出来たが、その時はも早癌研でも手の下だしようがなかったとの事だ。癌研へは江波戸氏

    や臼井氏も見舞われた。

     四月四日、故人の意志により告別式を廃し、自宅で密葬に附せられた。仏壇にはまだ戒名はな

    く「伊藤述史之霊」の位牌のまわりに花輪が数組供えられていた。氏の仏教観については一度正

    五会で講話を拝聴したことがあるが、筒台時代から宗教問題では探求に探求を重ねた揚句、釈尊

    の教えは小乗仏教が最もよくこれを伝えているという結論であった。仏教についても蘊蓄が深か

    った。

     逝去の翌日、青木一門が仏前で「石橋」の囃子をはやして故人の霊をなぐさめられたそうだが、

    わが凌霜うたひ会でも五月の例会で追善謠会を催したいと思っている。

 

                                    (五月六日)