(原文はB5判 縦書き3段組み)

  

        音申吉君(六回)生還祝賀會

 

 去る十一月六日の夕刊紙上にて、ソ聯の漂流機雷のため日本海に於て、商船氣比丸が

爆沈したニュースには一驚したが、更に其の遭難者中に吾等の音申吉君が寫眞入りで報

告されてゐたのには一層痛心したのであった、あの丸ビルの第一階で日本毛織の支店長

として東京に出入りする吾等の連絡を十年以上も快く勤めてくれたクラスの人氣者の音

君が、不慮の變死を招くとは實に哀悼を禁ぜざる處、今編中の三十周年クラスアルバ

ムの家族寫眞には黒枠でも着けねばならぬなど・・早速弔電を留守宅に送った人もあった

 

 然るに兩三日後に公表された救助者氏名中に、音君を見出した時は、心中深く其の奇

蹟的な幸運を慶賀せざるを得なかった。それで神戸に無事歸着したとの報告があったの

を幸として、早速阪神のクラス會有志の會合を催したのは十一月十四日であった。出席

したのは北村、杉田、吉川、小川、中田、松岡、吉田、中尾、田中それに音君を加へて

十人、神海樓支那料理、缺席者から音君宛に電報にて祝意を表したり、又通信ハガキに

熱烈な祝詞を書いた人も多かった、肉の不自由な時代でも支那料理はうまかった、それ

に醇良な日本酒が十分にあったので御祝らしい話が盛んに交はされたのであった、音君

が遭難當時の話を感激して語ってゐた、機雷の音は港で能く聞いたので慣れてゐたが、

「之は船中だ!」と自覺したときは可なり驚いたこと、然し救命具を用意した外重要な

決算書類をカバンに入れて携へるほど落着はあったこと、ボートの乗って海面迄下りた

時外れない綱を斧で切ったが、そのため水夫の一人は指を切断したこと、然しその指は

七號艇五十名の生命を救ったこと、而して救助されてから艇長にかうした意味の謝辭を

述べたら「よく言ってくれた」と皆が泣いたこと、傾き沈む本船は最後まで電燈が消え

なかったが、月光の下に鳴り響いた最後の汽笛は實に悲なものだったこと、そして最

後には七號艇全乗組員の名簿を作って相互の連絡を取って船會社との話などを纏めるよ

うにしたと何處に廻っても世話好きの幹事振りを發揮してゐた、杉田君は「無事なりし

記事を見し眼のかすめるは涙なるかも君よく堪へし」など二三の即興を披露してゐた、

芽出度い芽出度いとて散會したのは九時頃だった          (田中記)